真実ほどまやかしのものがあるかしら? ― 武田陽介「Stay Gold」

武田陽介「Stay Gold」へ。
そもそもといえば、わたしがFacebookで武田陽介さんを武田雄介さんと勘違いしてしまったのが出会い。あのときはほんとうに武田さんに失礼なことをしてしまった。

ギャラリーに入ってすぐ、一番奥にきらめいている木漏れ日のような写真がみえる。脇には、街、天体、白熊の写真・・・。スタッフたちがパソコンを操作しているところを通り過ぎながら、これは夢か、現実だろうか。わたしは今まさに、何を認識しているのか。どこにいるのかと無意識に考えながら見ていく。日本語では「写真を見る」などと眼を使った動詞で表現してしまうけれども、武田さんの写真はその動詞がまったくふさわしくなかった。そうではなくて、武田さんが捉えた時間は、わたしの網膜にスティグマとして焼き付けていた。わたしは現実にいる。知覚上でも写真をみつめて、眼をサッと閉じると網膜に武田さんの光や残像が焼き付けられる。ゆっくり眼を開くと、その風景がみえて、でも、フレームがみえはじめるとそこはタカイシイ・ギャラリーであった(ちなみにエレベーターに乗るとき小山登美夫さんと居合わせた)。
あたりまえのことだよね。でも、そんなこと、他の写真で考えたことがなかった。米田知子さんのように、作家のメガネを通じて原稿を撮影している写真で、その光景のように思えてしまうことはあるけれど、でもそれは写真をみている主体(わたし)がいてこそ。武田さんの写真はそれが感じられない。気付けば、その現実そのものになっているように思えた。
写真と自分を仕切っているはずのガラス、あまり反射しない素材だったのだろうか。わたし、ベーコンがいうようにガラスのなかに自分を映して作品と同化するように遊んでいることがあるのだけど、武田さんの写真はまったくそういうことを思いつかさせてくれなかった。不思議だな。ロバート・ブラウニングが詩でうたった言葉が出てくる。

「真実ほどまやかしのものがあるかしら?」

思わず、カタログを求めてしまう。新井卓さん、横谷宣さんのように、入手が難しい材料があるという写真の現状に対して、かつての技法を研究しながら作品を作る人たちがいる。かれらの存在をかんがえると、武田さんはデジタル写真の技法をどのように捉えているのだろうか。そういう展覧会だった。


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