齋藤陽道。
百瀬文。
二人はわたしのなかでは、別の繋がりにいた。齋藤くんとは青山で会ってそのままマックに流れ込んだときの付き合い、百瀬さんとは彼女の個展をきっかけに。その二人が、東日本橋のギャラリーハシモトで展覧会をされている(27日まで)。わたしにとっては交差点のような風景が感じられる。そう、鋏の支点のような出来事だった。
二人の人生はここで交錯して、そしてまた離れてゆくのだろう。交錯したことを祝いたい。
齋藤くんの新作はこれまで見えていたはずの人の「顔」が見えず、身体の一部がある。これまでの展覧会では風景と人物、人物と風景とかれが聞こえないタクトを振る交響曲のように写真が並べられているのに。百瀬さんの新作では視力検査を扱っているが、これまで見えていたはずのカメラの存在が見えなかった。ランドルト環と矢印、右と左の認識(どちらが右で左なのか)・・・。視力検査は左・右眼相互で検査するという片目の状態であることと、カメラが不在というテーマで考えるなら、サミュエル・ベケットがバスター・キートンを撮る作品と位相を結べるような作品になっている。
考えてみれば、わたしは二人から「撮られた」ことがあるのだった。2012年に。アプローチは違うけれど、「撮られる」きっかけは同じだった。そのきっかけについては長い話なので追々語ることもあるだろう。
わたしを撮る二人を思い出してみれば、齋藤からポートレートを撮られるとき、彼はわたしを動物的にさせ、自分にこんな能力があったのかと思わせる。ユクスキュルのいう自分の環世界が、鋭角的になっていることを出来上がった写真から感じる。なぜなら、言い方は悪いが、齋藤くん自身がわたしに仕掛けをして本能的に釣られてしまうからであった。いたずらっぽく笑う彼をよく覚えている。
対し、百瀬さんはわたしの部屋にきたときに自身が動物的で、わたしはどうにかして彼女の感覚についていこう、さあ、どうしたらいいか、と考えながら、何も考えずに撮られていた。出来上がった映像は、わたしにとってはありえないことが起きていて、聞こえる人たちからみてきた聾者のイメージ、ユートピアになっていて、逆に自分とは信じることがどうしてもできない瞬間が訪れる。ガラーンと音を立てて透明な環世界が砕け散ってしまう。
写真と映像。完成したものは違う形式になっている。
でも、齋藤くんと百瀬さんから「撮られる」という感覚はわたしのなかで同じであって。ひとつとして、たぶんに二人がカメラを持っていたからだろう。齋藤くんは今回デジタルカメラをつかった新作を出しているけども普段は馬鹿でかいペンタックスを首からぶら下げていた。
対し、百瀬さんはヴィデオカメラも使われるけれど、わたしを撮ったときには目先にCanonのいいデジタル一眼レフカメラをおいていたので、二人からはカメラに「撮られている」実感が強くある。デジタルカメラで映像がとれるようになった、ということはじつは制作現場において大きなことなのだろう。
たしかにカメラは一瞬を撮るものだし、ヴィデオカメラ(あるいはデジタルカメラの映像撮影モード)では継続的に撮っているけれども、いつ、どうやって切りとられるかはわたしには分からない。それは二人の手中にあるから。わたしはただ、二人の前に身体を思い切って投げ出すだけだった。
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