京都府立総合資料館と京都盲唖院

Posted on 2016/09/10

京都府立総合資料館の投書箱。
ときどきおもしろい投書がある。
一番笑えたのは「熊のプーさんは爬虫類ですか?」という質問。
答えは「質問の意味がわかりません」というものだった。

京都府立総合資料館。京都府民で知っているひとはどのくらいいるだろうか。京都の資料を取り扱う機関。わかりやすくいえば公文書館でありつつも貸出をしない図書館機能もあり、展示をする博物館機能もある、といえばいいだろうか。その京都府立総合資料館の新館がリニューアル・オープンするため、いまの建物が閉館になる。だからというわけではないのだけれども、2年前あたりからちょくちょく足を運ぶようにしていた。

わたしの博士論文の主題は京都盲唖院の空間構造がどのように成立したのかを明らかにすることにあった。京都盲唖院とは、明治11年にひらかれた、日本で最初の盲・聾教育をおこなう学校である。ここに残された宿題として、総合資料館の京都府庁文書、明治維新以来の京都府が扱っていた行政文書を十分に見切ることができなかったというのがある。もちろん、足繁く通ってはいたが。この行政文書の正式名称は「京都府行政文書」というが、江戸から昭和まで15407点がある。博論を書いていたときは、岡本稲丸先生ら盲学校、聾学校の先生方による調査成果でもある『京都府盲聾教育百年史』が頼りでそこから調査の手を広げ、京都盲唖院の成立に関する重要な文書を入手することはできた。おんぶに抱っこであるが、そこから手を広げて周辺の史料を探していく。ここで発見した古文書として例えば京都盲唖院の平面図があるが、これはわたしの博論の根底に位置する史料でもあった。これを起点に複数の史料を組み合わせることで京都盲唖院の空間を形成から成熟期まで見通すことができた。それはひとことでいえば、明治維新以後、政治の中心が東京に移ることで不要な遺産となった公家住宅をリノベーションして組み直されたものが京都盲唖院の建築であった。だが、こう問われると言葉につまってしまう。

「木下くんは、京都府の行政文書をすべて調べたか?」

それはできなかった。恥ずべきことである。余談になるが、博論を書いているとき、岡本先生にヒアリングをしたことがあるが、あまりにも前のことであまり記憶しておられなかった。ただ、細かく調べられたことは百年史や先生の単著を読めば分かる。

今も変わらず、わたしの研究の中心には京都盲唖院がある。そこだけはブレていないつもりで、京都盲唖院から現代をみるということを考えている。それで・・・「行政文書をすべて調べたか?」という自問に応答できないという、恥ずべきことを忘れたままにしたくなかった。京都盲唖院の史料は府立盲学校・聾学校が所蔵する文書であって、それが京都盲唖院の骨格と肉体だとすれば、府庁文書はその周囲にある「環境」であった。いい意味でも悪い意味でも、府庁文書は京都盲唖院をみつめるあまり単眼的な意識になりがちなわたしをほぐしてくれた。番組小学校、女学校、画学校といったいろんな機関が京都府とともにうごめいていたからであった。盲学校、聾学校、総合資料館、この3つの場所を行き来することで京都盲唖院の磁場(どのような力をもって動いていたか)を構成していくことができるだろう、必然的に建築空間の形成とも関連しているだろう、と考えていた。

京都盲唖院から明治をみるだけでも歴史研究といえるけれども、これからの歴史学を考えるとそれだけでよいのだろうか。これは同じ時間を生きている現代のアーティストたちからいつも教えられることなのだが、現代において表現はどのように可能か?という命題について筆をふるったり、パソコンに向かっているかれらと歩みたい。つまり、現代において、京都盲唖院について何を述べることができるのかそこを考えなければならない。たとえば、現代の盲人や聾者のあいだでは障害者差別解消法や手話言語法といった法整備がトピックである。重要なことだ。しかし、そのような整備があること自体、京都盲唖院をはじめとする盲唖学校の時代があってこそだった。急速な資本主義や軍国主義化していく明治で盲人や聾者たちがどのように個々と集団を構成し、生きようとしたか、社会のなかにあろうとしたか、ということは現代の法整備とパラレルになっている。わたしが考えているテーマの1つであるが、それを理解するには府庁文書を読み解かねばならなかった。

前述したように行政文書は膨大な数があって、それらをすべて見切ることはできないと腹をくくりつつも総合資料館のスタッフが作成された「件名簿」をまず調査した。これは、府庁文書1冊ずつにおさめられている文書の内容を1つずつ記録したものでこれもすごーい数で閲覧室の奥の棚にバインダーとして綴じられている。コピーもできず、借りることもできない。限られた時間のなか1頁ずつ自分の琴線にひっかかるようなトピックを考えながらめくっていく。だけれども「件名簿」にはすべての件名が入っているわけではない。気になる表題(文書のタイトル)であったら原本を閲覧して内容を確認していくという作業を繰り返していた。自分でいうのもなんだけど、愚直だよね。そこまでしなければならないのだろうか、いや、しなきゃいけないんだよ、誰かが。スタッフに尋ねたらいいじゃないかとも自分でも思うが、やはり京都盲唖院は自分の身体で理解しなければならなかったから。そうしていくと不思議なことに表題だけで盲唖院のことが書いてあると読めるようになる。そうしてわたしは京都盲唖院と行政側のあいだでどのようなやり取りがあったかを行政の側からピックアップできるようになっていく。

恥ずべき、あの自問。「京都府の行政文書をすべて調べたか?」

いまはこう答えられる。

「明治初年から大正までの行政文書は調べました。」

この答えはまったくダメである。さらに恥ずべきことである。
これらをどうひとつの集合形としていくか。そんなときの閉館である。これから開かれる新館も楽しみだけど、新館は「京都府立京都学・歴彩館」という名称になる。これから論文に書くときに「京都府立総合資料館」の名前を使うことはできない。さっぱりした昭和の感じの建築にもう入れないということにもセンチメンタルな感情があった。

この空間に出入りしたこと。けっして忘れない。

さようなら。

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