高橋由一と三島通庸

いま、東京芸大であっている、高橋由一展に向けて『三島通庸と高橋由一 ― 西那須野開拓百年記念事業』という本を前に読んだのでここにメモしておきたい。
これは、三島が土木工事で切り開いた道、栃木、福島、山形の道を高橋由一が描いたことを中心に論じている本。高橋は200点ほど描き、そのなかから128点をピックアップした『三県道路完成記念帖』(三巻)を出版した。
裏返してみれば、三島が油彩画によるイメージの敷衍という効果を知っていたからではないかということが論じられている。

政治家・三島通庸(1835.6.1-1877.10.23)は、美術史の人には聞き慣れない人名だろうと思う。もっとも出てくるのは土木史だろう。三島通庸は酒田県令をはじめとし、1876年に山形県令、1882年に福島県令を歴任した政治家だ。この間に交通を整備することを目的に道を切り開く事業をしている。
高橋由一(1828.2.5-1894.7.6)は三島より7年年上で、19世紀を生きた画家、日本における洋画の黎明期として記憶される・・・といったところが穏当な説明だろう。

この本に収録されている論文として、芳賀徹「明治絵画におけるリアリズムの形成」がある。
伊藤十郎平という山形県の役人による「栗子山隧道始末記」を手がかりにしている。これによれば、由一は明治14年7月31日に出発し、8月5日に山形に到着したという。この旅の目的が、切り開かれた新しい道を模写するためであったという。このときに描かれたのが栗子山隧道図だろう。

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芳賀は、報告書だけでなく視覚的に訴えようとした三島の考えがあるのではないかと指摘している。また、前例として、松平定信の伊豆相模海防巡覧に同行した谷文晁の『公余探勝図巻』があるのではないかと指摘している。なるほど。

「高橋由一と岸田劉生 - 切通しへの道」(『近代日本の思想と芸術2』)では、道そのものに心理的な効果があったのではという記述がある。

ところで、高橋由一の風貌について、慶応三年の自画像をみると、ぎょろっとした目。高橋由一油画史料沢村専太郎『東洋美術史の研究』に掲載されているという旅券(第三拾三号謄本)もこの展覧会に出品されているそう。


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