エドガーとトーマス

edgar

Edgar Martinsの写真展を去年、山本現代で見ているんだけど、この写真が強烈に脳裏にあって。

サイトにはポルトガルの「1950年代から1970年代にかけて相次いで建設されたこれらの水力発電所は、かつて200人以上の職員により管理されていた巨大装置でありながら、コンピューターで遠隔操作が行われるようになった現在ではほぼ無人で運転を続けています。管理システムに接続された機械が延々と並び、人間の気配の感じられない大空間を自若に捉えたこれらの作品には、われわれ人間がかつて描いたモダニティの奇妙な残骸が浮かび上がります。」

と書かれている。これは福島の原子力発電所事故と重ねあわせられる出来事であるかもしれない。しかし、この写真をみているとどこにでも売っていそうな小さなパソコンがあり、前面にはなんとも古びた計測盤がある。少し使われたようなテーブル、現代のパソコンと古い計測盤という時間の違いや椅子がないことの不自然さ、妙に整理されたようなデスクといったところは確かに「管理システムに接続された機械が延々と並び、人間の気配の感じられない大空間」という説明に合ったもののように感じられる。しーんとしたところでカタカタと計測器が動いて、パソコンはスリープしたままか、起動していない。電話もぽんと置いてあるだけだ。受話器を取る主はいるのだろうか。

なぜこれを思い出すかというと、いま、トーマス・デマンド展があっているからだった。そう、これだ。

demand

制御盤とパソコン、事故で剥がれた天井板、散らかった雑多な感覚・・・・。エドガーとは全く違うようなコントロールセンター。原子力と水力。現実と虚構。安定と事故。さて・・・何を思うか。まだデマンド展に行っていないけれど、このエドガー・マーティンズとトーマス・デマンドのこのふたつの作品のあいだにある裂け目をわたしたちはよく見ておく必要があるように思われる。


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