奈良美智とペリー

「奈良美智:君や僕にちょっと似ている」「ペリーの顔・貌(かお)・カオ -「黒船」の使者の虚像と実像-」が同じ横浜であっているというのは奇遇なことかもしれない。
だって、奈良は顔を描くほうで、ペリーは顔を描かれる側という能動/受動の関係にあるよね、単純に考えて。

展覧会のメッセージで奈良はこう言っている。

「もはや好むと好まざるにかかわらず、自分が作るものは、僕自身の自画像ではなく、鑑賞者本人や誰かの子どもや友達だと感じるオーディエンスのものであり、欲を言えば美術の歴史の中に残っていくものになっていくと思っている。自分の肉体が滅んでも、人類が存在する限りは残っていくものということだ。」

それで、ペリー展ではこんな説明がつけられている。

「ペリーの肖像画は、幕末期に来日した他の外国人とは比較にならないほど多く、また様々な顔貌のものが描かれ今日まで遺っています。」

奈良の場合、自画像というのは展覧会を訪れるひとたちのことであり、歴史の文脈に位置づけられるものだということを意識しているが、ペリーは黒船という衝撃の余波によって、伝播してゆくイメージとして捉えられている。

まず、奈良の話をしよう。


個人的な好みだが、わたしは奈良の初期作品が好きで、これは「リトル・プリンス」とおいうものだが、1980年代のがとくに松本竣介を思わせるような色の重ね方があった。いまの奈良とは違う、もっとかっちりしたものがあった。具体的には「あの絵は・・・」と言えるものがあった。それがいまの奈良にはとても曖昧なように思える。誰でもあって、誰でもないようなひとたちで、わたしが誰かにあの絵について語るために指し示そうとすると、どの絵を言っているのか、自分でも混乱しそうなところがある。
それに、なんだかガラスに映る自分の顔と重ねるとああ、これわたしのなかにある「要素」なんだと思ってしまう。
たしかに、奈良は制作についてこういう。

「自分が作り出したという親心は残っている。それで「僕にちょっと似ている」であり「君にちょっと似ている」となったわけなのだ。そして、それらはあくまでも「僕や君にちょっと似ている」のであって、作品自体は僕やオーディエンスのように、ひとつひとつが自我を持つ「作品という名の本人」であるのだ。」

「擬人法・・・」そんな言葉が浮かぶような言い方。作品がひとりでに動き始めるということを奈良は意識しているようだ。

さて、マシュー・ペリーはどうか。ペリーの海軍経験はすごく豊富で、1852年に東インド艦隊司令官に任命され、日本遠征を命じられたのをきっかけに来日した(黒船、というけれども展覧会の説明によれば、黒船というのは外国船の総称であって、ペリーのことをいうわけではないとのこと)。
そして、翌年の1853年7月8日に浦賀に投錨。1854年2月13日に再び日本にやってくることは日本史のどんな教科書にも載っていることだ。

日本政府はペリーがくることを察知していたけれど、民衆たちはペリー一行に大変驚いてその容姿を瓦版で伝える。政府側は直接ペリーをみた人たちによるオフィシャルともいえる似顔絵が残っているけれど、その落差がとてもおもしろい。

たとえば、左は政府側が作成した肖像画。これをみると、直接みているし、描いた人も絵画の経験があるがゆえに、たしかに外国人らしい。でもペリーそのものの肖像画とどことなく違う顔・・・。なんというか、外国人を目の当たりにしてどのように描くかという困惑もあるように感じられる。
民衆になるともっと顔が変わってきて鬼のような顔をしている。

この違いは何なのだろう。この展覧会では見解を示していない。どうしてこんなに変わってしまったのだろう。しかし、そんなことよりもおもしろいのは、わたしたちは「これはペリーだ!」と認識してしまうことにあると思う。一種のバイアスのようなものがかかってしまっているというか。瓦版には「ペルリ像」とか添えられてあって、これはペリーですよと断定されちゃっている。

奈良のように顔のなかに自分を見出すことと、あるいはペリーのように顔のなかに誰かを見出すことはもしかしたら、ほんの些細な、ほんの微妙な違いにすぎないのかもしれない。

映画だともっとおもしろいところで、ヒチコック『間違えられた男』とか。橋本一径さんならいろいろ語ってくれるところでしょう。

2012年 8月 25日(土) 23時15分17秒
壬辰の年(閏年) 葉月 二十五日 戊午の日
子の刻 一つ


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