ハモンド『カメラ・オブスクラ年代記』

前ポストでは、カメラ・オブスクラ・ポータブルの制作について取り上げました。今日はこのカメラ・オブスクラに関する書籍として必須とされるジョン・H・ハモンド『カメラ・オブスクラ年代記』を読みました。

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これについては、すでにネット上で書評が出ています。とくに松岡正剛さんによる書評はカメラ・オブスクラの広がりを大いに含蓄した内容です。というか、これはあの千夜千冊の90夜なのですね。相当早い時期に取り上げられている本です。

この本は必ずしもハモンドの考えを記述したというよりは引用してきたり、調べてきたものを配列しているような感がぬぐいきれませんが、それでもなおカメラ・オブスクラという人の社会に緩やかに広がっていった技術がどういうものであったのかよくわかる本です。

まず目次は以下のようになり、時系列に沿って解説されている本といえます。

第1章  初期
第2章  13世紀から14世紀
第3章  15世紀
第4章  16世紀
第5章  17世紀
第6章  芸術におけるカメラ・オブスクラ
第7章  18世紀
第8章  19世紀
第9章  20世紀

「カメラ・オブスクラ」なる言葉はヨハネス・ケプラーによって十七世紀までに用いられたことがないことと十九世紀までは「カメラ」と言っている人も多いことにまず注意しなければなりません。
この本を読了したので、ヨハネス・ケプラーまでの部分をまとめておきます。

第1章  初期
ここで、ハモンドはまず3人をとりあげます。
まずは墨子です。ニーダム『中国の科学と文明』(7巻)によれば、紀元前五世紀の経書、墨子や荘子により、影は勝手に動き出さないことや大きさの変化についての観察がされていることが述べられ、影への興味が指摘されます。ここはまるでストイキツァ『影の歴史』を思わせるような出だしです。そして墨子は衝立に針をあけて倒立した像をつくることを最初に記述したといいます。これは「閉じられた庫(くら)」といわれていました。しかし、これ以降の発展はみられませんでした。

このように墨子が言及した「カメラ・オブスクラの現象」について人の手によらずに発生することを観察したのは紀元前四世紀のアリストテレスだといいます。彼は日蝕のとき、木陰に三日月形の像が浮き上がることを観察したといいます。著者はソースを書いていませんが、これは『問題集』からの引用と思われます。しかしこのメカニズムを解説するためには十六世紀になるまで待たなければなりませんでした。
著者が後述する、アメデ・ギレミン『自然の力』(1872)(本書180-181頁)にはこのような挿絵があり、アリストテレスのいうことが版画で示されています。

最後のひとりが、アルハゼン(イブン・アル=ハイサム)です。彼は三本の蝋燭を一列にならべ、小さな穴をあけた衝立を蝋燭と壁のあいだにおくと、壁に像が結ばれることに注目しています。ハモンドは文献について言及していませんが、これは11世紀の”Kitab al-Manazir”『光学の書』を指すのではないでしょうか。

第2章  13世紀から14世紀
アルハゼンの影響をうけた人として、ロジャー・ベーコンをとりあげ、光の反射と屈折について書いたといいますが、カメラ・オブスクラについては記録が存在しないために疑わしいといいます。しかしハモンドが注目するのはウィテロギョーム・ド・サン=クルーヴィルヌーヴら同時代の科学者で、彼らは日蝕観測手段としてカメラ・オブスクラに言及するのが特徴であるといいます。とくにウィテロ『光学』はアルハゼンの影響を受けつつも、像の形成について説明があります。また、ヴィルヌーヴは、俳優に戦争や殺人のシーンを演じさせているところを投影していることから、これはカメラ・オブスクラというよりは影絵芝居や映画のようなものであると指摘します。

第3章  15世紀
15世紀におけるカメラ・オブスクラで取り上げられるのはふたりで、ひとりがレオン・バティスタ・アルベルティです。しかし、アルベルティはカメラ・オブスクラと結びつけられる事が多く誤解されているといいます。そうではなく、アルベルティが考察したのは「覗き眼鏡」なるものであるといいます。また、スケッチの補助器具とと結びつけて考えられていたといいます。もうひとりがレオナルド・ダ・ヴィンチであり、手稿にカメラ・オブスクラの図を書き残しています。

第4章  16世紀
この世紀はカメラ・オブスクラの歴史においてもっとも大きな進歩がみられたといいます。とくに、ヴェネツィアの貴族ダニエレ・バルバロの業績は大きいものでした。バルバロは、老人には凸レンズの眼鏡が合うといいますが、それをカメラ・オブスクラに応用するべきだと考えました。彼は鮮明な像をつくるためにはレンズの径を小さくすることを薦め、像を受け止めるところは距離が重要であると考えました。このような方法で、たとえば紙に投影された像をなぞり、なぞられたイメージに色をさすことが記述されています。これは、絵画のためにカメラ・オブスクラを利用することに最初にふれた記録だったのです。

そして、この時代は天文学者たちが太陽を観測するために装置としてのカメラ・オブスクラに着目したときでした。まず、ケプラーの先駆者というべき数学者だったフランチェスコ・マウロリコは、目を痛めずに太陽を観測するためにカメラ・オブスクラの装置が必要であると示唆しています。
ドイツのエラスムス・ラインホルトは1544年と45年の日蝕の観察について記述したとき、カメラ・オブスクラを使用しています。その弟子だったレイネルス・ゲマ=フリシウスは『天文と幾何学の光線について』(1545年)でカメラ・オブスクラの図を引用します。

これは、カメラ・オブスクラの図がはじめて印刷された最初の例だと考えられます。

そして、カメラ・オブスクラを考えるうえで何よりも外せないのはナポリ生まれのジョヴァンニ・バティスタ・デラ・ポルタです。デラ・ポルタのベストセラー『自然魔術』(1558)によれば、カメラ・オブスクラを使って様々な風景を映し出すための方法が記述されているのです。これはたいへん広まった書籍なので、以降の書物や百科辞書がデラ・ポルタをカメラ・オブスクラの発明者として記述することは無理からぬことであるとハモンドは指摘します。

第5章  17世紀
この時代は、視覚に関する研究が発展した時代でした。天文学への探索では、1631年にピエール・ガッサンディが水星の太陽面通過の際にカメラ・オブスクラで観察したといいます。
また、ジェレマイア・ホロックスがホロックスがカメラ・オブスクラの仕組みを使って太陽を紙に投影し、金星の太陽面通過を観測しようとするところが描かれています(エア・クロウ(Eyre Crowe)による絵画、National Museums Liverpool, the Walker Gallery蔵)。

Th Horrocks observing the 1639 transit of Venus by Eyre Crowe

この太陽面通過はケプラーが予測したものでその日は1639年11月24日の日曜日。ホロックスはこう記録しています。

私は、紙の上に直径およそ6インチの円を描いた。部屋が狭くて、もっと便利な大きな円を用いることができなかったのである。・・・・・・観測のときが近づいてくると、私は部屋に閉じこもり、窓を閉めて光を遮断した。あらかじめ焦点を合わせておいた望遠鏡を、壁の隙間をとおして太陽の方角に向けた。そしてさきに記した紙の上に太陽の光を直角に受け止めた。太陽と像は円とぴったりと一致した。そして光の円盤に侵入してくるはずのくり鋳物を見逃すまいと、目を凝らして観察しつづけたのである。

このように天文学においてカメラ・オブスクラが使われるシーンがありましたが、そもそも「カメラ・オブスクラ」なる名称をつけたのがヨハネス・ケプラーでした。それまでは以下のような呼び方がありました。

・コンクラーベ・オブスクルム(conclave obsurum:暗い部屋)
・クビクルム・テネブリコスム(cubiculum tenebricosum:黒い玉座)
・カメラ・クラウサ(camera clausa:閉じた部屋)

ケプラーはデラ・ポルタからカメラ・オブスクラの存在を知り、検証を重ねつつ、1607年の水星の太陽面通過においてカメラ・オブスクラで観測しています。また、レンズを使って像を拡大する方法も呈示しているのです。

このようにカメラ・オブスクラは光学、天文学、視覚論のあいだで観察されつつ、利用されてきたということができます。とりわけ、目を痛めてしまうために太陽を直接目にすることができないという点はカメラ・オブスクラを利用する強い動機だったことがいえます。

2012年 10月 01日(月) 00時14分20秒
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