日本盲教育史研究会 第一回研究会

・日時、会場の環境
10月13日土曜日に日本盲教育史研究会の設立総会および第一回研究会が日本点字図書館にて開催されました。3階の多目的ホールでしたが、WifiはFONだけが入っていたため、実況は不可能でした。このホールの床は斜面になっていません。

・出席者について
出席者は80名、テーブルに椅子を3脚ずつ並べる形式。弱視と手話通訳を必要とする人は前方に席が準備されていた。手話通訳について準備したのは岸事務局長と木下だが、スクリーンと講師が窓側に座るために、手話通訳も窓側に確保してもらう形式になりました。

・来場者について
八王子盲学校の座間幸男校長、北九州盲の吉松政春校長など現役校長がいらっしゃったのをはじめ、OBと現役の盲教育関係者が多いように見受けられました。他、森田昭二さんなど盲の方々も多くみえられました。また、手話通訳もついたので、聾史学会のメンバーが参加しました。

・設立総会について
浜松視覚特別支援学校長をされておられた、伊藤友治さんによる司会で会が進行しました。
第一部の設立総会では、まず司会の伊藤さんが議長に選出され、筑波大学附属視覚特別支援学校校長をされたこともある、引田秋生先生を会長とする役員がスムーズに選出されました。
その際、この会が設立されたときのきっかけについて説明がされ、それによると、2010年にエロシェンコ生誕120年のつどいがあり、関係者が集まったのが研究会の契機につながったとのことでした。わたしもこのつどいの存在については聞いていました。

そのまま第二部の研究会に移行しました。

・記念講演
福山市立大学教授・中村満紀男『盲唖児に対する教育界の関心の共有化と辺境化 — 日本障害児教育史研究の意義を改めて考える —』

この講演が本研究会のメインイベントでした。中村先生はトピックをいくつか立てて、障害児教育史について全体をふりかえろうとします。

・ご自身の研究史について
中村先生はもともとアメリカの障害児教育が専門で、アメリカの歴史を学び、日本をアメリカに近づけるのがよいという考えをもっていたという。その際、中村先生はコンプレックスがあるといい、それは教育史の勉強はするが、現場にはかかわらないというものであると。
こうしてきた実感として、アメリカの歴史の勉強で考えると日本の障害児教育は、借り物だったのではないかということです。つまり、日本はすでに作られたものを借りて、まねをしてきたのではないかと指摘します。

そのあと、教育史の全体像について講演をされます。

・廃人学校
まず、冒頭に取り上げるのは、1872(明治5)年の学制における廃人学校規定について、「一般の学校教育体系(小学)の一部としたことは、驚くべき発想ではないか」といいます。

・盲唖学校の経営方針と理念による「支持」について
官立・公立以外の盲唖学校がどのような方針をもって経営をしていたのか、もっと注目するべきではないかと提言されました。
すなわち、経営方針や公的な補助金の獲得の可否といった盲唖学校運営の方法を把握することが求められるといいます。
また、松村精一郎、左近允孝之進、金子徳十郎のように社会一般よりも理念が進みすぎていて、かえって支持を集めることができなかった事例にも注目すべきといいます。

・口話法の手話法駆逐説に対する疑問
1920年代半ばから、口話法運動トリオ(川本宇之介、西川吉之助、橋村徳一)によって、口話がよい、手話はよくないということで手話法擁護者は孤立したという既往研究の知見について、中村先生は疑問を呈示されました。それは例えば、記念誌による教員の回想を読んだときに、明確に口話法でやっている証拠を見いだせないことや、口話法を習得した教員が全国的に200〜300人しかおらず、日本全国をカバーできる人数ではなかったことや、またご自身が高校生のときに手話で会話する子供たちを見たという経験によるものでした。
また、 川本宇之介は口話法の欠点を知っていたということが著書よりわかるといいます。

・20世紀転換期の状況 — 「劣等児」「低能児」への関心移行
この時代になると、「小学校教員の関心は、指導の試みから専門教育機関の創設へと展開するようになる」といいます。指導が試みられる例として、以下の人物を取り上げられました。

福島市の宇田三郎
徳島市の五寶翁太郎
愛知県の成瀬文吾
仙台の菅原通
小樽の小林運平
長野市の渡邊敏・鷲沢八重吉
松本市の三村寿八郎
福岡の北野孝治

このときは同時に、盲や聾だけでなく、「劣等児」「低能児」へと拡大するといいます。すなわち、盲唖学校がメインの関心ではなくなったということです。これは例えば家庭の事情で通学が難しい児童をいいます。
このことにより「水増し教育や指導上の配慮から脱却する実践と理論化の試み」があったといいます。水増し教育とは、本来は5年生なのに3年生の教育を受けているというような、授業のレベルを下げた教育をいいます。理論化としては、三重女子師範附属小学校の三浦保行による「算術科教授刷新の五綱領(1918) 」を事例に、生活に密着した算術の教授方法を呈示されました。

しかし、このような教育を実施しても生徒が育児をしているという家庭的な課題のために通学に支障があるということや一種の「流行」があったいいます。

・盲唖教育における「師範学校規程制定ノ要旨及施行上注意」文部省訓令第6号(1907(明治40)年4月17日)
これは上記と関連します。特別学級の設置について記述されるといいますが、この訓令がされるきっかけとして以下の活動を取り上げられました。

1903年 小西信八「小学校盲唖学校附設論」
1905年8月 第5回全国連合教育会審議
1905年9月 第5回全国連合教育会文部大臣建議案
1906年10月 古川・小西・鳥居三校長による盲唖学校準則案(盲・聾分離、官立盲・聾分離、道府県立盲・聾学校設置)を文部大臣に要望。

(付記:他の論文ですが、この訓令については服部教ーの影響が指摘されているものもある)

また、この訓令に基づく対応として、県教育会による 盲唖学校への関与があったといいます。この範囲について「盲唖学校の創設から継承、経営(一時的・県立移管まで)に及んでいる」とし、「県教育会は中央集権的教育行政の支配下にあったから、県の何らかの意向が反映したのではないか」と指摘されました。
このような師範学校附属小学校に、特別学級を設置するものとして、以下の4県を取り上げられました。

徳島県 1894年 五寶個人の聾唖児指導→1903年 私立→1908年 師範附小→1915年 盲の学級が追加される→1931年 県立
高知県 1908年 師範附小(唖)→1928年 廃校(中断)
和歌山県 1909年 師範附小(唖)→1918年 県立
三重県 1910年 師範附小(盲)→1919年 三重県慈善→1921年 私立→1925年 県立
徳島の五寶翁太郎による「盲唖教育は「普通教育」の範囲にあるのであって慈善事業ではない」といいます。

まとめると、特別学級の多くは、県の盲唖学校の代わりの役割を果たしたが、生徒数は増加せず、初等学校に中等部や職業課程の存在は変則的であり不安定であったといいます。
この要因として、大規模校であることと、特別教育に関心をもつ校長であるという2つの必要条件が求められたことを中村は指摘します。

・「盲学校及聾唖学校令」(大正12年)
あまりにも知られた事項ですが、この効果として、2つの点を取り上げました。

1、経営困難の解消や教員の給与改善
2、生徒数の増加

しかし、「劇的に改善したとは必ずしもいえない」とし、例として神奈川県立盲唖学校の場合を取り上げられました。これは施設がきわめて古かったのだといいます。また、樋口長市(1871 − 1945)によれば、盲唖学校は小学校と比較して、研究・研修が低調ではなかったかとのことでした。その樋口は「日本ではじめての障害児教育学者である」といいます。

・「戦時体制への急速な傾斜と教育界の支持の濃淡」
昭和になると、戦争にたいする保守的かそうではないといった眼差しが「県によって明瞭な違いが存在する」といいます。このような戦前戦後の障害児教育には課題が残されているといいます。

・まとめ
日本が、「アジアのなかで唯一、先進国になったのは、異質の文化から徹底的に吸収し、模倣する努力」であったといいます。これは文部省をトップとする、中央集権体制により、全国的に均質な教育が試みられたことによって可能でした。
しかし、アメリカの真似をするという体質は変わっていないのではないかと中村は考えます。これは、9月に開催された、50回目の特殊教育学会において、日本的な体質がよく出ていると述懐されていたことにもよります。

・今後の研究について
中村先生は長らく勤められた筑波大学を退官し、何のテーマを最後にするか考えていると。それで、現在のアメリカの研究と日本のトレンドをかさねた研究をしようと考えているといいます。つまり、もう一度日本を研究したいというわけです。この成果は2年後の刊行を目指したいとしめくくりました。

(とくに盲唖教育と特別学級、「劣等児」「低能児」への関連性をもつことができたことと、教育史の感覚、教育史の総論をうかがえたことが最大の収穫でした。)


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コメント

“日本盲教育史研究会 第一回研究会” への1件のコメント

  1. 岸 博実のアバター

    日本盲教育史研究会の発足総会と第一回研究会(記念講演)について、木下知威さんが記録してくださいました。

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