京都でかげうつし展をみる。
この展覧会は、京都市立芸術大学ギャラリー(KCUA)であっていたのだが、1、2階をつかった展示になっていて、1階が入口になっている。入るといきなり松村さんのポルノマガジン。
ああ、そうだ・・・。ここに入ったときに、女の子が座って監視スタッフをしていたのだが、荷物をもっていたので、「お預かりします」と話しかけてきたので、「はい」と言った(つもり)で、荷物を預けて、交換札を受け取る。ちなみに加納俊輔さんの作品が配置されているところ。
そのあとがおもしろかったんだよね。荷物をあずけるところはインフォメーションにあるんだけど、そこにチラシが置いてあることに気付いて、展示をぬけだしてそのチラシをみて戻った。そしたら、彼女が何か話しかけてくる。彼女の口を読み取ろうとすると・・・日本語じゃない。英語なのだ。英語で話しかけつつ、近づいてきたので、思わず身構えてしまった。
これは、わざとである。
わたしのことを外人だと思い込んでいるらしいことはわかった。アジア系の英語を話す人と思ったのだろうか。英語で返事しようかなとしょうもない悪戯心が芽生えたけれども、まあ、ここはそういう所ではない。彼女にはわたしのかげが外国人のようにうつされているようだ。心のなかで「フフッ」と笑ってしまった。
加納さんのぐしゃりとひねられたオブジェがそんなやりとりの背景にあった。
そんなふうにわたしは無言で反応したり、声をちょっと出しただけで外国人かな?と思われることがある。
さて、「かげうつし」について。高橋耕平さんの作品は知っていたけれど、こうして「かげうつし」のテーマで《Sight of the blinking. 2》はスクリーンに近づくと自分の影が一緒にスクリーニングされるところがとても重要なところだと思う。ビデオをプロジェクターで投影するという形式のありかたの歴史性についてもふみこんだら、おもしろかったかもしれないとも思った。もちろん、ストイキツァ『影の歴史』も参照されていたけど、そのあいだにはおそらく、OHPの歴史(というか、3Mの歴史)があるべきで、これをここでも積極的にやってもらいたかったかなという欲も出てきたよう思う。
みてまわり、かの女の子から荷物を受け取る。
「ありがとう」と手話で表したら、悟ったようだった。わたしが外国人でもなく、日本の聾者であったことを。
2012年 11月 08日(木) 23時57分30秒
壬辰の年(閏年) 霜月 八日 癸酉の日
子の刻 二つ
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