感想(2) ― 百瀬文《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》

東京五美術大学連合卒業・修了制作展に出品されていた百瀬文《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》の上映が終わりました。武蔵野美術大学のブースで、しかもテレビとヘッドホンによる上映という、作家にとっては「好ましくない環境」でした。

それゆえ、出演者としてもあまり積極的にPRはしなかったのですが、ヘッドホンがある、ないだけで全く違うように見えてしまうことであったり、あるいはヘッドホンがない人にとっては、聞こえない人が映像をみるかのような状況になっているという指摘もありました。また、ヘッドホンをつけてもなお、声を聞くことはできないという指摘もあったように周囲の反応がよく、広報させていただいたという経緯があります。

今日でその上映も終わりましたし、百瀬さんがKABEGIWAのポッドキャストで、ある程度、作品の背景について語っていると聞いていますので、ここでも少し3点、応答しておきたいと思います。ネタバレにならないように書いておきます。

(なお、まだ見ていない人は読まない方がいいでしょう)

 

1、作品で起きることを知っていたのか
まず、あの作品を見た人たちから尋ねられることに、「あの作品で何が起こっているのか、知っていたのか?」というのがあります。
そうでしょうね、いきなり核心を突く質問だと思います。これについては、ある意味では知っていたし、知らなかったとも答えられるでしょう。わたしは百瀬さんからコンセプトの説明を受けていましたし、会話のプロットについても知っていました。そこで、わたしが彼女に希望していたことは「わからないようにしてほしい」ということでした。収録しているときには気付かないようにしてもらいたいということです。
なぜかというと、答えは単純で、それを知っていたら作品が成立しないと思うからです。だから、コンセプトは了解したけれども、作品のどこで何が起きるのか、それは知るべきではない、知っても何にもならないと考え、彼女にそうお願いしたということになります。ゆえに、「あの作品で何が起こっているのか、知っていたのか?」については、「知っていたし、知らなかった」という二面性を含んだ答え方になります。
それでよいのか?と思われるかもしれません。ええ、わたしはこれでよかったのです。わたしは百瀬と彼女が目指すものを信じることが一番大切なことだと考えていました。これは、広くいえば紀元前から綿々と続いているアートの力を信じるということなのでしょう。個人的な話ですが、ルーヴル美術館で名も無き画家による磔刑図をみたとき、時代が経過していて、ポプラの木がキリストの体を砕くほど湾曲していたのですね。キリストの顔から腹にかけてまっすぐヒビが入っていました。でも・・・キリストが飛び出してきそうな効果が逆にうまれていて、有機体である木の裂け目に光るものがみえたとき、イエスの血をみてしまったかのようで、思わず震えてしまったのですね。そういう心をふるわすものがわたしにとってアートの力であり、それを心に留めて生きたいと常々考えているような人間です。
きれいごとのように聞こえるかもしれません。ただ、この作品を撮影するとき、すんなりとそういう気持ち、モチベーションになったのではなくて、撮影当日もわたしの不安も含めて細かいやりとりを重ねています。その経緯で、彼女への気持ちをわたしなりに構築していったと考えて頂けたらと思います。
そして、百瀬文本人もわたしに作品で発生することを気付かせるつもりはありませんでした。まとめると、作家は気付かせるつもりがなく、わたしもあらかじめ知っておく必要もなく、気付きたくもないという関係だったといえます。

2、作品の危うさについて
そして、あの作品で発生する「危うさ」があります。コンセプトと直結するところです。これについてはむしろ、そういうことが起きるべきであろうと考えていました。実際、わたしは収録後、百瀬に作品の構造について説明を求めませんでしたし、求めるべきではないと考えていました。収録が終わっても「編集」という作業があります。彼女はいやでもパソコン上でわたしの顔を見て取り組まなければならない。そういうシーンをわたしなりに想像すると、作品の内容について何かを言ったり、説明を求めるといった干渉は、彼女の繊細な感覚を狂わせてしまうかもしれない、良い方向にはならないと考えていました。繰り返しますが、その危うさは作品の構造、コンセプトと密接にからんでいます。それを強く保つには、百瀬と作品について語ることをやめるべきだと考えたのです。
ポッドキャストで話があったかもしれませんが、百瀬さんはこの作品について葛藤していた部分があったとわたしは感じています。ですから、わたしは彼女に良い作品を作ってもらいたく、「思いのままにやってほしい、遠慮はいらない」とお願いしました。侍のようにいえば、「遠慮は要らぬ、思い切って斬れ」というわけです。
製作中と思われる時期に一切無視をきめこむのではなく、Twitterでも他愛のないやりとりをしていましたが、内容についてああだこうだとふれることはありませんでした。

3、作品と聾者の関係について
そして、聾者が作品をみたとき、そのコンセプトを理解できないことについてです。親しくしている、写真家の齋藤陽道さんのように「わかんなかった!」という聾者もいれば、ふつうのドキュメンタリーに見えてしまうという意見もありました。・・・わたしもなんですよ。逆にいえば、聾者の感覚を共有できたということでもあります。
わたしは1月の武蔵美での上映後に百瀬本人から説明を受け、作品の構造を理解しましたけれども、他にもいろんな感想を頂いて、「ああ、そうだったのか」と思うことが多々あります。いうならば、あの作品はわたしにとってはその映像のなかにいたことは間違いないにも関わらず、完成されたそれを知覚することができないのです。別に悲しんでいるわけでも、怒っているのでもありません。なんとも整理しにくい感情ではありますが、そこには決して分かり合うことのできないものがあって、それこそがあの作品そのものを成立させている、と今のところは考えています。

以上になります。作品の細かい背景については、あのポッドキャストにおける会話を完全に知ってからにしたいと思います。先方と文字化される計画を立てているのですが、実現できるかどうかはわかりません。聾の人たちのためにもやりたいですが・・・。

さて、次の上映は武蔵野美術大学優秀作品展(4/3(水)〜4/25(木))になりますので、まだの方はぜひご覧頂けましたらと思います。

百瀬さん、お疲れさまでした。そして、国立新美術館までおいでくださった皆さんも寒いなか、ご覧いただき、感謝しております。梅の季節になったとはいえ、冬はまだ続きます。くれぐれもご自愛くださいますように。

さようなら、お元気で。

 

木下知威


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