原美術館で開催されているソフィ・カル展をみにいく。
彼女の盲人を撮影した写真というのは、わたしにとっては京都盲唖院のすでに忘れ去られた人たちのような存在をあらためて召還しているようにも思えた。障害者の記録として、というよりも、目が見えないという盲の身体が織りなす物語が明治から平成に連続しているということなのだと思う。
例として、以下の(5)のように薬品を注射された女性の写真があって、注射された直後に目がぼやけてしまい、赤い雲のようなバス(c’est le bus comme un nuage rouge.)を最後に見ているという。女性の写真・・・たしかに目のところは視覚を失っていることがわかる正面の写真でその横になにかぼやけたような写真がある。これが、この女性のみた最後の写真らしい。
・・・でも、気になるのは「ぼやける」ということはこのように、焦点をずらすことなのであろうか?だんだんと視覚を失っていくということは、こんなふうにきれいなものではなくて、もっと、見ることの力そのものを失っていく、徐々に視界のあちこちが崩れさってゆくようなこととは考えられないのだろうか。
いじわるな言い方かもしれないが、視界が「ぼやける」というのは本当にこのような写真のような見え方になるのだろうかという問いが発せられたとするならば、当の本人はこの写真について判定することはできない。視覚がないのだから。とすると、この写真は誰もがそのものだと判断することはできず、存在すらとても曖昧なものに仕上がっているように思えてならなかった。
要するに、この盲人の言葉をわたしの神経に接続するのならば、バスの写真はそれこそ、わたしが見るような、シャープで、くっきりしたものを呈示すべきではなかったのだろうか。それを目の前にし、わたしはあの女性の言葉を反芻することで盲になることもできたのかもしれない。
2013年 3月 28日(木) 23時37分30秒
癸巳の年 弥生 二十八日 癸巳の日
子の刻 二つ
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