思い出の触覚 − 椋本真理子「in the park」

国分寺のswitchpointへ。

椋本真理子の作品には、ニュートラル、非場所性、人工、といった言葉を思い浮かべるだろう。わたしもその一人だけれど、わたしが考えるのは水である。まず、水は椋本の彫刻において登場する回数が多い。また、椋本の作品の中で《private pool》という作品に一番感銘を受けているからというのもあろう。プールの表面を象ったような作品でいて、彫刻としてのプールサイドは存在しておらず、水そのものが現前している。

なぜ、水なのか。ロレンス『黙示録論』では、古代人の意識として、触れるものはテオスであるとしている。引用しよう。

「今日の吾々には、あの古代ギリシャ人たちが神、すなわちテオスという言葉によって何を意味していたか、ほとんど測り知ることは出来ない。万物ことごとくがテオスであった。(・・・)ある瞬間、なにかがこころを打ってきたとする、そうすればそれが何でも神となるのだ。もしそれが湖沼の水であるとき、その湛々たる湖沼が深くこころを打ってこよう、そうしたらそれが神となるのだ。」

注意しないといけないのは、それ自体がテオス — theos(ギリシア語の「神」)なのではなくて、心を打つものになって初めてテオスになるとしていることだ。ここで、ロレンスが取り上げるのがまさに水なのである。

ヘレン・ケラーについて語るとき、水を避けて通れない。ヘレンは7歳の時に勢いよく出る井戸の水に触れながら、家庭教師アン・サリヴァンよりw-a-t-e-rという綴りの指文字を一方の手でうけ、それがwaterであることを知った。ヘレンのことよりもこのエピソードが知られている。
ヘレンにとって初めての自伝“The story of my life”(1903)ではこのエピソードについて、“I knew then that “w-a-t-e-r” meant the wonderful cool something that was flowing over my hand. That living word awakened my soul, gave it light, hope, joy, set it free!”と綴った。
翌年に出版された、内省的な書籍 “The world I live in”(1904)では、“It was the awakening of my soul that first rendered my senses their value, their cognizance of objects, names, qualities, and properties.”とある。「はじめてわたしの諸感覚にそれぞれの価値、すなわち対象の認識、名称、性質、属性などを与えたのは、わたしの心[my soul]でした。」という。ヘレンのmy soulを呼び起こし、 light, hope, joy, set it freeと彼女の感覚が一気に解き放たたれたのが水であると。
それをテオスとするならば、それは触れて、心を打つものだった。

ギャラリーや美術館で展開されるように芸術における触覚の問題は、文化と保存の問題とも絡んでいて、非触覚な世界を作り出している。なんでも触りたがるヘレンの存在が許されない世界だ(ヘレンは昭和天皇に面会する時、天皇の顔に触れてはいけないと注意されている)。椋本の彫刻も例外ではなく、触れて鑑賞することは原則として推奨されていない。それにもかかわらず、椋本の作品にはテオスの問いがある。

ギャラリーのなかに湧き上がる水のような作品《fountain》がある。スプレーで塗布したような青い、ムラのないザラザラした質感がある(上の写真)。桃の尻のようなラインを描いて、下部はうっすらと絞り込まれているようにもみえる。水は流動性を持ち、重力に従って上から下に流れる透明なものだ。狩野派が描いたように川から流れ落ちる時に舞い上がる水飛沫の渦巻きがあったではないか。
しかし、この椋本が表現する水というのは、それらを欠いている。蛇口をひねった時に流れる水や雨が降った後の窓ガラスのように、水滴が重力に抗いながら静止している瞬間ではない。そうではなく、これは思い出としての水である。感激したことがないか、「in the park」で噴き上がる水を見て心が躍ったことを。夏休み、プールサイドからプールに飛び込んだ時のはじける感覚を。肌にぶつかるヒヤッとした水の冷たさ。このとき、心を踊らせるのは水によってである。プールサイドではないのだ。それだけに、わたしは《private pool》に自分の思い出を再発見している。

かつての作品《flowerbed》を手のひらにのるように小さくした《flowerbed mini》も展示されていた。山を象ったような凹凸のあるソリッドのうえに深い緑色があり、その上に筆の痕跡として黄緑と柿色の絵の具がある。これにもまた、水が別のしかたで現れている。それは絵の具じたいの動きだ。稜線をなぞるように描かれた残滓が水の痕跡を見せてくれる。もちろん、この絵の具じたいは水彩絵具ではないだろうが、問題はそこではなくて、水が具備している流動性と深い緑に色づく花や葉という植物が水も同時に認識する。瑞々しい、という言葉によって。
思い出さないか。「in the park」で紅葉の季節に彩るカラカラした葉、春の柔らかな新葉を拾い上げたことを。

椋本の彫刻がもつ形態としての共通項として円空のようなソリッドがある。円空のように、荒く鉈を振るうわけではないけれども、面的なディテールによってファクトを鑑賞者に一任する効果がある。記憶というのは明確な稜線を持っていないことも手伝って、鑑賞者であるわたしたちは、椋本の彫刻を手前に7歳のヘレンのようにその形状と色彩が喚起するものを見出す。それはいうならば、思い出の触覚である。

本郷かおるさんが淹れてくださった熱いお茶を飲みながら。


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