偶発の組成 — 地主麻衣子「欲望の音」

Art Center Ongoing「53丁目のシルバーファクトリー」にて

HAGIWARA PROJECTSにて「欲望の音」スクリーニングを見る。上映が終わった時に思ったのは、ようやく地主麻衣子の作品に浸かったような気がする、言い換えると地主の作品がようやく身体に沈殿していくことが感じられるということだった。わたしが地主の作品を初めて見たのは黄金町バザール2014だと記憶している。

さて、「欲望の音」とはなんだろうか。作家本人が一部をVimeoにアップロードしているものはこちら。

 

この映像の形式について確認しておこう。3つのアングルから撮っている映像を横に並べており、その時点でかなり横に細長いものとなっている(プロジェクターは1台であり、1つのデータとして合成されている)。左はドラマーのドラム周辺のアップ、中心は地主がドラマーを撮影しているもの、右は客席から地主とドラマーの全体を撮ったものとなっている。これらの映像は同時間に起きていることを映し出している。また、バンクーバーで公開撮影されたものだという。
この形式において注意しておきたいのは字幕における情報量である。HAGIWARA PROJECTSでのスクリーニングでは日本語字幕が付いていたが、映像の下の黒い部分の面積が広く、そこに表出される字幕の字数が多い。映像の基準である4:3から16:9とアスペクト比が変化すると同時に、字幕の情報(一度に表現できる文字数、色、位置)が定められる歴史がある。地主のこの作品はさらに細長いものであって、黒地が多く、字幕を表現する際の制限となりやすい字数の問題に対応できる構造となっている。言い換えると、地主とドラマーの発話をひとつの字幕として表出できる。ある程度、長い発話になると発話の途中でも字幕を切り替えなければならないのだけど、この作品では伝えたいものが詰まった看板のようにひとつの字幕の情報量が多い。台本を少しずつ見せられているかのような感覚がある。

この映像において、地主はドラマーの男性に向かって欲望の音とは何か話したいと言い、欲望と倫理、即身仏について、激しい欲望について、欲望の行き場についてというふうに欲望をめぐるダイアローグを牽引する。ドラマーは地主の問いかけに応じて答え、最後にダイアローグを締めくくるかのようにドラムを演奏し、欲望の音を喚起させようと試みていた。このようなアンソロジカルな手法はこれまでの作品でも試みられてきたことだ。

さて、本題。わたしはこの映像についてどう思ったか。それは「欲望の音とは、偶発の組成である」ということだった。

まず、わたしは「欲望」の「音」を捉えることができない。見えているそれをつかもうとするようなことではなく、そもそも見えないのだからつかみようがないことに似ている。それはわたしの聾者という身体性において、音というものに物理的なものを固定概念として認識しているからなのだろう。あのドラマーの彼もイメージしながらドラムを叩くのだけれども、彼の叩くドラムが欲望の音だったとは思えない。それは欲望をドラムのうえでイメージした音なのではないかと考えていた。

美学や美術批評の視点では、ジル・ドゥルーズが『アンチ・オイディプス』で示したように欲望とは1つのアンジャンスマンを構成することである、というテーゼからダイアローグによる言葉からドラムによるメロディーというシークエンスの構成という指摘がありうるだろうが、それよりも別の道に入ってみたい。

ひとつのダイアローグが終わると、地主はドラマーにいまやりとりしたことを演奏して欲しいと依頼する。彼はそれに応えようとするとき、ギャラリーのスピーカーが床に置かれていたものだから、振動がよく伝わっており、確かにドラムの音は床を介してあった。けれども、これが欲望の音なのだろうか?ドラマーによるコントロールでリズムやビートが変化していることはよくわかるが、それはドラマーのイメージであって、欲望の音とは思えなかった。

たとえば、映像の左にある、ドラムがクローズアップされたところをみよう。その映像の右端には地主の問いに答えようとする彼の右手が映り込んでいて、地主の語りに答えようとするときにもごもごと動いていた。もどかしそうに動く手は、地主の問いに彼が思考している時に表出されていた。それは、声を声にする前の手の動きであり、思考を空間の中で整理して表出する直前の手の動き。声もまた、楽器であることを考えてみれば、それを奏でるために動く手。
別の視点では、即身仏についての演奏して欲しいと問われたドラマーは何かに耐えるような、生理的に生きようとする身体が抗うようなリズムがあった。最後にはおそらく棺におさまって最後の時間を迎える僧侶が奏でるゆっくりしたテンポの音。手の動きが小さくなるにつれて、振動も小さくなっていく。確かにそれは地主が語った即身仏のストーリーに沿うものであったろう。けれども、わたしが惹かれたのは彼のドラムではなく、彼の身体だった。ドラマーは目を閉じ、腕だけの最小限の動きでドラムを叩く。今際の際をあらわす身体。
また、欲望と倫理についてダイアローグを終えて、彼が演奏しはじめてまもなく彼がシンバルを叩こうした時に不意にシンバルが床に倒れるシーンがあった。彼の手が滑ったのか、そうでないのか、それは作家と彼の間でしか理解できないことであるが、バランスを失い、床に倒れるシンバル。その刹那。

発話するためにもごもごする手、今際の際、シンバルが床に倒れこむまでの刹那。これら3つの共通項というのは、欲望の音とは楽器を奏でることによる音楽と違ってコントロールできるものではない、偶発の組成であるということだった。補足しよう。わたしが知っている言語としてのフランス手話で、desireに対応するフランス語のdésir/désirerを手話で表現すると、差し出した両手の手のひらを上に向けてゆっくりと上下するという静かな動きをする。これを激しく動かすとvouloirになる。アメリカ手話だとwant、wishと同じで手の形は似ているが、動きが異なる。わたしにとってはその動きによる手の抑揚自体が欲望のイメージであって、それが指し示すものは食事、仕事、買い物、就寝といった日常を構成する折々のなかにたたみこまれていて、いつ訪れるか不確かなものだ。この地主の作品について文章を書いていることさえdesireなことだ。日常の折々においておとずれるものが何ら特別なものではないという認識であるならば、帰着の見つからないダイアローグについてドラマーが叩き出すあのビート、その直前の身体に欲望の音を見ていたということになる。もっと遡れば・・・

その音は、地主がドラマーと出会ったときからしていたのである。誰にも聞こえない音として。それを地主はわたしたちに聞かせてくれたということなのであろう。


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