背中の思い出 あるいは、思い出の背中 — 村瀬恭子

Posted on 2018/10/13

村瀬恭子《In The Morning》
(1998、村瀬恭子展にて(ギャラリーαM))

 

ときおり射抜かれるような展覧会に出会うことがある。それはしばしば展示室に入った瞬間に決定される。ギャラリーαMにて「絵と、  vol.3 村瀬恭子」はそんな時間だった。

村瀬はグラファイト、色鉛筆、油彩をミックスしながら描いている。それらはざらっとした感触のコットン・キャンバスもしくは紙のうえで表現しているが、薄く伸ばしていて、じわじわとお互い侵食しているような描き方は琳派の人たちを思わせるところがある。
また、これらのメディウムの使い分けによって、奥行きや描かれていないはずの色が描かれている。わたしたちが子供の頃から持っている様々な空想の物語のイメージを仮託する容器たりえている。

何よりも語らなければならないのはこの絵だろう。

《In The Morning》(1998)だ。

この絵には、とろけそうにきらめく黄色の髪、ブルーのカーテンを開ける手、拡散する光、顔の見えない頭部、視線の不在、曖昧な風景、ヌード、ザラザラした皮膚、女の背中・・・。

村瀬の絵画には「背中がある」ということを教えてくれる。その背中はやや撫で肩に、紺色のラインで身体をかたどって、意思のある肩甲骨が描かれている。いうまでもなく、背中というのは、いわば身体の裏側の大部分を占めている。それは恋人のように親しい関係でなければ見ることができないだろう。誰しもそうだが、真正面を向くと背中のある方向(後ろ側)を見ることはできない。

逆にいえば、背中を一方的にみる鑑賞者はその背中の主 — 顔を認めることはできない。その人が振り返らないかぎり顔を認めることはできないのだ。それはルロワ=グーランが『身ぶりと言葉』で指摘したように、前部領域(頭部の表側)に感覚器が集約されているからである。四肢動物から二肢となった人間において、背中は忘れ去られてしまって、定位置がないのだ。そのことをわたしたちは本質的に認識しているのだろう。絵画を見る視線が移ろいてしまう。

同時に背中は定位置を喪失したかわりに獲得しているものがある。それは思い出、である。わたしたちはそこに一方的な視線を浴びせかけてきたのではなかったか。わたしたちはいろんな人の背中を見て育った。両親の、友達の背中、黒板に向かって字を書く先生の背中。わたしたちのために調べ物をしてくれる人たちの背中・・・映画の人物の背中。電車で出会い見知らぬ人たちの背中。多くの背中を見てきただろう。わたしもこうして、誰かから背中を見つめられているに違いない。これらの一方的な視線で、わたしたちが見てきたのは背中の先にある、その人たちとの長く、あるいは刹那とした思い出なのである。そこにはもちろん楽しく、また哀しみの思い出があったはずだ。「また会える?」と約束して去りつつも再会することのない女の子の背中のように。背中というのは、思い出を受け入れるところだと定義できる可能性を村瀬の絵画が教えてくれる。

村瀬が描いているのは背中ではなく、ザラリとしたコットンにのるブラッシュワークの痕跡は不安と喜びの入り混じった、思い出なのである。

ブルーのカーテンを開ける手。認識される直前のバラバラした光の混和状態の視界。バターのような芳しい髪は光そのものとして背中を包んでいる。《In The Morning》というタイトルが示しているように、今日が来たという期待、不安、希望といったカチャーンとした感情が少しずつドライブする朝の目覚めの瞬間というものが描かれているのである。

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