わたしの2010年代

Posted on 2019/12/29

本棚とルイ・ブライユの胸像写真

 

2019年の年末。今年は2010年代を総括した一年であるといえるだろう。

2010年に提出した博士論文が受理され、博士号を取得した。あれから9年が経過したが、2010年代は取得以降の方針を定め、理論と方法を準備する期間であったといえるだろう。最近のアカデミーではよくいわれることであるが、取得することのみならず、「取得したあとの姿勢」も問われている。ちょうど、この2010年の3月は東京大学において博士号が取り消されるという残念な出来事があった。
これは、博士号の取得において、内容のみならず、取得以降の見通しもふくめた評価も必要とするものだったのではないか。それは追い込まれても展開できるしなやかさを備えた問題意識、倫理観、くわえて謙虚な研究姿勢といったこともふくめて提出された博士論文を評価しなければならない時代を告げるものであったように思われる。

わたしの場合、博論では京都盲唖院を建築計画学と建築史を主題にした分析であったけれども、今後の姿勢としては歴史という過去の時間における人々のリキッドな動態を論文として表現することができなければならないと考え、そのための理論・方法を身につけることを第一に、可能なかぎり知見を習得することに設定した。

まず、人との交流から考えよう。表象文化論学会とSNSへの参加はその大きな起点となった。ひとことで言えば、多士済々な学会といえよう。田中純先生や小澤京子さん、天内大樹さんをはじめ、眩しくきらめく人たちがいた。この空間でいろんな方にお会いでき、原稿を書く機会が得られたことは建築学という大きな惑星からスイング・バイするさいにたいへん大きなエネルギーとなった。この学会はまちがいなく、2010年のわたしの思考を形成するうえで一番大きな基軸であった。最近は予定があわずに参加できていないが、また積極的に参加したい。
つぎに、twitterやFacebookというSNSは障害者という限定された世界で見れば、2010年代において大きなムーヴメントだった。わたしのコミュニティを構築している存在も大きく変わり、坂本邦暢さんや北村紗衣さん、隠岐さや香さんをはじめとする自分のまったくしらない未知の専門分野の先生方とお会いできたことは、自身のことを外在化する機会だった。ようするにそれは、わたししか知らない事柄をどう一般化するかという問いでもある。その意味でもわたしは障害をもつ研究者として、SNSを活用した第一世代に属するだろう。あとから続く、障害をもつ研究者もSNSから得る知的資産はとてつもないものがあると信じている(でもおそらくSNSの時代は長く続かないだろう)。

わたしはこれまで教育を受けてきた側であるが、2010年代は教育をおこなう立場にもなった。たとえば日本社会事業大学で中心的に行なっている教育がそれになるが、毎年アップデートを続け、みずから考えるための教育とはなにか模索しつづけてきた。結局、大学で学べることは人生の一部にすぎないのだけれど、いかにして、規範というものを認識し、その箱から出入りすることでみずからの知を如何にしてつくりだすことができるか。かつ、アカデミック・ライティングという型の習得をつうじて、自分自身しか存在しえない意見が成立しうるか。そういった、知の体系を構築するための教育であったようにおもわれる。

また、2010年代は国内外のあちこちを旅行した。主に日本における盲唖教育の展開を検討するために北海道から九州までいくつかの地域をおとずれて、史料を収集できたのは大きなことだった。これらはまだ十分に公にできているとはいえないが、収集したものたちの数と質はまちがいなく、わたしにとって思考を広げる——群立させるために必要なエレメントである(くわしくは「ひとりのサバイブ」を参照されたい)。もちろんまだ未踏の地域もあり、2020年も何らかのタイミングで継続されるだろう。
海外にはさほど出かけなかったが、今年ひさしぶりにヨーロッパに渡航し、ヨーロッパの政治、社会、障害者の現在をリサーチし、見聞できたことは大きな糧となった。送り出してくれた関係者に感謝したい。これらの国内外の旅も総和として新たな研究として昇華できることをめざしている。

プライベートでは、わたしの周りには多くの人が現れては去っていったことがなによりも思い出される。一度だけ通り過ぎただけの方もいらっしゃれば、あんなに親しかったのに疎遠になってしまった知人や友人たちもいらっしゃる。また、博士論文でヒアリングをした、大正期に生まれたろう者たちもご逝去されていった。京都盲唖院の研究における大先輩・岡本稲丸先生も2011年に亡くなった。これは歴史を橋渡しするものとしての責任を請け負うことでもあった。
なによりもわたしの二世代上の直系として最後のひとりであった祖父も2014年に100歳で亡くなった。これは歴史学を遠望する上でのある基準を失った出来事であった。亡くなる数年前、戦前の古い時代のことを回想してもらった。それらの思い出は歴史として記録する必要のまったくない、きわめてミクロで、個人的な出来事であったけれども、それはわたしが過去を旅するときのよすがになるだろう。血縁というものによって、それらの出来事が日本の、世界の大きな出来事につながることによって、「わたし」はかつての「わたし」となり、その時代を想像するエネルギーとすることができるからだ。2017年には「悪魔のしるし」の危口統之さんも亡くなった。彼はわたしにとってはこのうえない、「ノイズ」だった。おもえば、この2010年代は多くのひとたちを失った。

いっぽうで、あらわれてきた人たちがいる。2012年に百瀬文さんをはじめ、アーティストやキュレーター、批評家のみなさんと出会えたことはわたしの生において稀有なことだった。例えば、あいちトリエンナーレをはじめとする、この人びとによる社会や政治にたいする身振りは、歴史学とは過去をつくるものではなく、未来をつくるものとして在るという普遍的なことを教えてくれた。感謝しても感謝しきれないほどの豊穣な時間と感覚をプレゼントしてくれた。

そうしたアプローチとアクションによって、わたしは多くの史料を集めて、いくつかの研究を行うことができた。ここで強調したいのは、集めるということはとてつもなく大事なことでこれがないと研究の質を測ることができないのだ。とくに、盲唖学校のように身体障害をめぐる史料があちこちに散逸していることをひとつの場に集めることが大事だった。そこは他の研究分野と違うところかもしれない。そうしたことの成果をひとことで言えば、盲人や聾唖者・唖者(現代でいう「ろう者」のこと)という全く異なる身体性をもつ存在を盲唖学校のなかにおいて同時に俯瞰しながら、かつ近代の様相もふくめながら検討をしてきたということだ。
いくつかのテーマがあるが、ひとつだけとりあげるなら、口話教育、指文字、点字といった盲人や聾唖者の身体とコミュニティを形成するうえで不可欠なメディアの導入じたいの研究がある。これによって、教育史だけでない、障害者の歴史の理論を提案できたと考えている。また先述した「ひとりのサバイブ」(『知のスイッチ』所収)でわたしの方法論もまとめることができた。それは、まわりにあるものたちがいかに群立しうるか、その可能性を考えることであった。
すなわち、2010年代をつうじて、理論と方法はわたしの手元にそろえることができた。あとはこれをいかに実践できるかであり、これが2020年代のひとつの大きな主題になるだろう。とくに、京都盲唖院と対となる東京盲唖学校の母胎である楽善会はとくのその対象たりうるものだ。だが、それ以前に、建築学への回帰もふくめて、わたしにはおおいに勉強しなければならない分析方法が残されている。
それに、忘れてはいけない。人生の不確かさが常に付きまとっているということを。とりわけ、オリンピック以後の世界的な不景気がかねてより指摘されているし、不慮の事態もありうるだろう。これまでが順調だったとは思っていないが、さらに順調にはいかないはずだ。それでも、ただ日々を、時間のなかで思考していくことを忘れないことだ。それは、村上友晴さんの絵画への向かい方から学んだことでもある。

みなさん、2019年もお世話になりました。ありがとうございました。

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