齋藤陽道『感動、』(2019)より
フョードロフにとって重力とは原罪に似ていて、人類を下方へ、大地へ、横臥状態へ、最終的には死へと縛り付けるものであり、重力の克服とはとりもなおさず死の克服を意味していました。(本田晃子)
『人間の条件』における「墓碑」より
写真集をめくることをなんと表現するだろうか。読む、見る、ながめる・・・。齋藤陽道『感動、』(2019)は「突き抜ける」ではないか。そんな写真集だ。それはおりにふれて齋藤の写真を見てきたが、明確に言葉にしていなかったことを自省する時でもあった。
基本的な構成は前作『感動』(2011)と同じで、横長に写真を配置しているが、前作がソフトカバーだったのに対し、シルバーのかかったハードカバーで「感動、」の黒い字が箔押しされており、重量感のある仕上がりになっている。
ところで、わたしには『感動』と『感動、』はまったく異なって見えた。まず、見開きの色のバランスといった構成が深化しているというのもあるが、それよりもあちこちに散らばっていく生に対するシャッターとしての写真と呼応するかのように、レンズが、カメラが、透明度を高めていた。そう思えるのは、水のなかを撮っているように思われても、浮遊しているかのような写真やそこには空気があるのか、ないのか。重力があるのか分からなくなるような瞬間があった。
本来ならば、写真とわたしの間には、世界をあるきまわる齋藤の身体、彼の身体を支える足、視覚、聴覚、カメラを支える手、シャッターを押さんとする指、食べ物をほおばる口、咀嚼する胃、現像、プリント、印刷といった多くの身体と所作と機械が関わりあっているはずだ。なのに、わたしは齋藤の身体を突き抜けて、写真、いや重力すらも突き抜けて、その生に至っているように思えた。
それが成せるのは、ひとつは誰か/何ものにとっての齋藤の存在が多面的に、多角的になりつつ、時間の中に沈殿していっているからだろう。つまり、沈殿するということは重力を伴うことであって、齋藤は他者とかかわることによって、ますますその度合いを高めている。被写体も含めた、わたしたちはその重力の身体を借りることによって、生へ突き抜けるエネルギーを得ることができるのだ。それはまた、自らの内面に重力が宿っていることでもあることに他ならない。
もうひとつは、個人的な理由だ。『感動、』にはタイヤの写真が1枚入っていることによる。わたしは彼がかつて撮った、「タイヤ」(2009、写真新世紀 佳作)の連作を思い出していた。2009年という2010年代の扉が開かれる前の時間をわたしたちはすでに突き抜けていることに気づいたのだった。2010年代はどんな世界だったか、わたしたちは知ってしまった。現実は、たいらなせかいではなかった。
齋藤がワタリウムで個展「宝箱」をおこなった時に「たいらなせかい」という表現をしている(『美術手帖』BT201403、292頁)。そのたいらなせかいへわたしたちはまだ至っていない、それは『感動、』の「、」という断続がよく示している。
わたしはそこに行ってみたい、齋藤の写真とともに。
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