わたしは女性を探している — 川村麻純展

Posted on 2013/03/06

昨日、資生堂ギャラリーで開催された川村麻純さんの個展へ。
わたしは川村さんの展示を二度訪問したことがある。最初はBankartで開催された芸大先端の制作展。これについては「見えない女性たち」という感想を書いた。そのときはヴィトーレ・カルパッチョや小瀬村真美さんのことを引き合いに女性たちの生死の表現が気になったし、川村さんの「声を撮りたい」という言葉に驚いたのだった。

その次は、LIXILでの個展だった。このときは、平日の昼ということもあり、あまり人がいないことをいいことに「女性の目と自分の目を合わせてみるとどうなるかな・・・」ってあのスクリーンに接近したら、その女性からずっと見つめられているというドキドキ感があった。時間を越えてわたしとその女性が見つめ合っているということになろうか。川村さんが被写体にカメラを見つめてくださいと指示していることがよくわかる撮影なんだと実感している。
ということで、今回は3回目の訪問になる。

会場の資生堂ギャラリーは沈殿するようなところだ。階段をおりていくとね。
いつも思うけど、天井高があって、1階から階段を降りると途中の踊り場から下のフロアが見えるというつくりはなかなか無いギャラリー。地下にあるということもあり、外壁はガラスじゃないし。水中のようだよ。
踊り場からチラッと会場をみると照明がまったくなく、スクリーンの発光のみではなかったか。薄暗く、水族館のよう。
川村さんはどのくらい作品を並べるのかなと思っていたけれど、プロジェクションした映像を4点(映像と言ってよいか、だいぶ躊躇う)。 踊り場からみえる空間にはワイヤーでスクリーンを垂らして背後からプロジェクションしているので、浮いて見える。

妊婦の写真たちをしばし観賞してから再び階段を降り始める。
降りきって、受付を通ると久しぶりに女性たちと対面する・・・見覚えのある女性たち。そう、Bankartで出会った女性たちが出迎えたので「ご無沙汰しています」という感情があった。スクリーンがひときわ輝いてみえるのは白みを帯びていることもあろうか。光沢感のある作品。
いま作品、とかいたけれども、わたしは彼女の作品を、「写真と映像のあいだにあるような存在」あるいは「映像でもなく写真でもない」「映像であって写真でもある」という奇妙な感情を抱いているようだ。「これは写真です」「これは映像です」ということそのものを問うているようにも思える。これはBankartでみたときから変わらない。

さて、この展示、聾者にはiPadが準備されていて、受付に申し出ると貸し出してもらえる。このなかにはPDFがあって、女性たちの語りが文字化されている。映像と合わせて読めるようになっているわけだ。
これはわたしが彼女にお願いしたというよりは、彼女の作品のなかに聾の女性がひとりいるから制作されたとおもう。ご本人とも昨日のオープニングでお会いしたけれども、とてもきれいな方であった。ぜひiPadを活用されることをお願いしたい。

わたしは聾なので、iPadを活用して女性たちの話に入っていく。母のことを語るためか、女から女へ、女から女へ、と綿々と続く糸がみえる。iPadのなかにあるPDFを開くと、テクストがきれいに並んでいてその左にプロジェクションされた女性たちがいる。わたしは女性たちの顔をたよりにiPadを動かし、テクストを読んでいく。そしてプロジェクションされた女性が切り替わると、わたしもまた手を動かして次のテクストにとんでいく。そういう意味では能動的なことが求められている。そこがヘッドホンを使っている人たちとの大きな違いであろう。彼らはじっと沈思しているかのように座っているが、あのデバイスを手にしたわたしは手を動かして彼女との出会いを作らなければならない。すなわち、わたしは女性たちを探している。女性たちの影を追い求めてさまようような人であった。
そして、20〜30年以上が経過して、どこかの美術館でプロジェクションされたのを中年を過ぎたわたしが再会したらば「ああ、このお方はもうお亡くなりになっただろうか」と瞬きをする女性を見つめるかもしれない。女性たちがレンズをじっと見つめているだけにその思いを強くする。

奥のブースにある姉妹のシリーズは初めて見た。スクリーンはふたつ横にみえていて、左右の女性二人が姉妹なのかなとおもいながらiPadをみつめる。ダゲレオタイプで撮影するとき、被写体はブレないように首のところを固定されているけれども、川村さんのそれは固定されていない。ということもあろうか、とくにちっちゃな女の子は結構動いていて、横溢する生命力そのもののようでもあった。撮影が終わったら飛び出したんじゃないだろうか、あの子は。

ところで、川村さんは百瀬文とわたしをつないでくれた人だ。あの映像・・・《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》が成立するには、川村さんが存在しなければならなかった。彼女がいなかったら、あの映像は作られることは決してなかったはずだ。
そんなことを思い出していると、わたしはいつのまにかスクリーンに映った二人の女性 — 川村麻純と百瀬文に囲まれていることに気付き、思わず冷や汗をかいたのだった。

2013年 3月 06日(水) 20時49分54秒
癸巳の年 弥生 六日 辛未の日
戌の刻 四つ

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