メガシンポ「人知のいとなみを歴史にしるす」

7月6日から7日にかけて立教大学でメガシンポ「人知のいとなみを歴史にしるす 中世・初期近代インテレクチュアル・ヒストリーの挑戦」が開催されます。プログラムはここにあります。 Continue Reading →

目撃すべきユクスキュル

國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』で引用されているように、ここ数年、ヤーコプ・フォン・ユクスキュルの本がよく引用されるようになっている風潮があるように感じている。『動物の環境と内的世界』が出たし、『生命の劇場』も文庫で出た。とりわけ、翻訳されている『生物から見た世界』 岩波文庫(青943-1)(あるいは思索社、 1973年)が一番読まれているはずだ。 Continue Reading →

見つめ合う男女

ダスティン・ホフマンとキャサリン・ロスの『卒業』(1964)。いつだったろうか、まだ成人式を迎える前にみたことがあって。まだ見ていない人にとってはネタバレで申し訳ないけれども、教会に押し掛けて花嫁を連れ去ってしまうというのが当時はインパクトだった。好きとか一緒にいたいっていうのはこういうことなのかなあって思いながらこの映画をみていた。

でも、インパクトに残ったのは男が女をかっ攫うシーンじゃなくて、そのあと二人が乗り込んだ公共バスのなかで二人が見つめ合う、残り香のようなシーンだった。
それを5つのスクリーンショットで連続してみてみよう。 Continue Reading →

寛仁さまにお会いした日

keyword:寛仁/ボッティチェッリ/アケロオスのニンフ

2012年 6月 17日(日) 22時34分47秒
壬辰の年(閏年) 水無月 十七日 己酉の日
亥の刻 四つ

PDFのパラドックス

今日、Twitterでこんなツイートがあった。

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パロディ化されるゲーム

どんなゲームなのか知るにはデモとプレイ動画をみるのが一番良いと思っているけれども、そのなかでたまたま見かけるものがあって、スーパーファミコンで大人気だった「ファイナルファンタジー5」(1992、スクウェア)。これはわたしも発売されてすぐ友達とすぐ買いに行き、夢中でやりこんでクリアしたものだった。 Continue Reading →

1826年

2012年 6月 14日(木) 23時58分45秒
壬辰の年(閏年) 水無月 十四日 丙午の日
子の刻 二つ

ラファエロの時計

2013年にラファエロ展があることがアナウンスされたので、パテック・フィリップ・ミュージアムの動画を。この動画のおわりに、ラファエロの “La Madonna della Sedia” をモデルにした懐中時計が紹介されている。円という絵をそのまま時計に採用しているところが憎い。他にもねずみや昆虫をモデルにした自在置物のようなギミックや鳴く鳥、綱渡りもあり、時計制作はそういうからくりと親しいことがあらためて伺える動画。これらの装置をみていると、カメラオブスキュラ以後、映画以前の「映像」のようにも感じられる。

鋭利な言葉

アンナ・パヴロワの写真のように、わたしはときどきハッとする「もの」をみることがある。「もの」とはわたしの外にあるものすべてで、自然といえばよいだろうか。なぜハッとするのと聞かれて、その理由を語り始めようとするとその「ハッ」とする感覚が頭のどこかからぬけていくようで、それを捕まえるようにして語り始めることがある。これはわたしの無知や語学力の不足、記憶力の弱さをさらけ出すことであるけれども、それでも言葉にしなければならない。 Continue Reading →

エドガーとトーマス

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Edgar Martinsの写真展を去年、山本現代で見ているんだけど、この写真が強烈に脳裏にあって。

サイトにはポルトガルの「1950年代から1970年代にかけて相次いで建設されたこれらの水力発電所は、かつて200人以上の職員により管理されていた巨大装置でありながら、コンピューターで遠隔操作が行われるようになった現在ではほぼ無人で運転を続けています。管理システムに接続された機械が延々と並び、人間の気配の感じられない大空間を自若に捉えたこれらの作品には、われわれ人間がかつて描いたモダニティの奇妙な残骸が浮かび上がります。」 Continue Reading →

高橋由一との再会(高橋由一展)

2012年 6月 08日(金) 23時14分45秒
壬辰の年(閏年) 水無月 八日 庚子の日
子の刻 一つ

不安げな画家 — Ferenczy Károly

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Ferenczy Károly(1862-1917)という、ハンガリーの画家がとても気になるこのごろ。ハンガリーには彼の美術館もあるようで、著名らしい。日本では紹介されたことがあるのだろうか? 果たしてどのくらい知られているのであろうか。実物をみたことはないけれど、境界の曖昧さと身ぶりがなす雰囲気は、印象派の・・・そうだね、スーラとかのインスピレーションを受けつつも近代における「不安」が感じられ、ムンクのようでもある。

宗教画も描いているようだ。これは東方の三博士だろう。

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自己の自動生成システム

カメラとコンピュータを使って一筆描きで自画像を作成するシステムの映像。このセルフ・ポートレートを試した人たちの写真もある。面白いのは、「自分を見ず」に「オートメーション」で描かれるということだろう。ゲーセンには、顔を撮ってもらったら自動的にイラストになってくる機械があったけれど、それとも違う。被写体がペンをもって紙の上におけば自動的に絵が描かれるというプロセスが入っている。

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ポリツィアーノとボッティチェッリ

PolizianoPoliziano “Stanze per la giostra di Giuliano de’Medici”
(Firenze, Antonio Tubini, lorenzo d’Alopa, Andrea Ghirlandi, c.1500)

いま、集中している研究があり、そのなかで少し気になることがあったので、アビ・ヴァールブルク『サンドロ・ボッティチェッリの“ウェヌスの誕生”と“春”―イタリア初期ルネサンスにおける古代表象に関する研究』を読み始める。原書は1932年、ライプツィヒで出版されたもの。わたしにとってヴァールブルクの出会いはだいぶ前で『蛇儀礼』が最初の読書だった。
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セライオ《プシュケーの物語》について

ヤコポ・デル・セライオ《プシュケーの物語》(1490年頃、ボストン美術館)について記録しておきたい。セライオの生没年は1441–1493というが、確定していないそう。もしそうであれば、15世紀に活躍したフィレンツェの画家とまずは覚えておこう。むろんこういう人いっぱいいるけども。セライオのこの絵はもともと家具の一部だったらしい。横に細長い家具だったと想像される。

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弥太郎の恋

日銀総裁を務めた、三島弥太郎(1867-1919)は三島通庸の長男にあたる。

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弥太郎は1893年に大山巌の娘、大山信子(1877-1896)と結婚している。信子は16歳。

nobuko

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高橋由一と三島通庸

いま、東京芸大であっている、高橋由一展に向けて『三島通庸と高橋由一 ― 西那須野開拓百年記念事業』という本を前に読んだのでここにメモしておきたい。
これは、三島が土木工事で切り開いた道、栃木、福島、山形の道を高橋由一が描いたことを中心に論じている本。高橋は200点ほど描き、そのなかから128点をピックアップした『三県道路完成記念帖』(三巻)を出版した。
裏返してみれば、三島が油彩画によるイメージの敷衍という効果を知っていたからではないかということが論じられている。

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薄暗がりのなか、キラキラと輝く・・・

2012年 6月 03日(日) 23時57分02秒
壬辰の年(閏年) 水無月 三日 乙未の日
子の刻 二つ

おすすめのテキストエディタ

いくつかMacのアプリを試す。テキストエディタを変えようと思って。
これまでevernoteを使っていたし、今もそうするつもりだけれども最近はちと重い。それで以下のものを見つけてきた。

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道路に建築を挟む、道路から建築を切り取る

スゥ・ドーホーの”Bridging Home”(2010)という作品。 この人はメゾンエルメスや東京都現代美術館で展覧会をしたことがあるので、国内でも知名度があるアーティスト。でもこの作品ははじめて。これをみたとき、青井哲人さんの『彰化 一九〇六年  市区改正が都市を動かす』を思い出した。彰化(チャンホワ)は台湾の中部にある小さな古い街で、訪問したことがあります。

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仏像の暗さ

keyword: 原田直次郎/騎龍観音/神護寺/薬師如来

2012年 5月 31日(木) 21時34分29秒
壬辰の年(閏年) 皐月 三十一日 壬辰の日
亥の刻 二つ

「リアル」と「現実」の違い

御徒町の3331にて。ここは、天内大樹さんと訪問したことがある。天内さんと話していると、自分が思っていないことまで話してしまうのだから、ある意味危ないのかもしれない。

それはともかく、ここを訪問したのは、大友克洋GENGA展をみるためだった。かの『AKIRA』はワイヤーが張られた段のガラスケースに原画を載せていて、原画が浮いているかのような構成。
原画はほとんどA4で、見開きはA3横で描かれている。アキラは夢中になって読んだ漫画で、子供のころだったんだよね。クスッと笑ってしまうようなシーンもあるけれど、人が撃たれて死ぬシーンなんか、不条理というものを実感した強い思い出がある。

その原画をみたとき、はじめてアキラを見たという気持ちになった。漫画で読んで内容を知っていたことがふきとんだ感覚。ひとこま、ひとこま、世界がそこにある。絵画をみるとき、たとえばレオナルドのモナリザはたくさんの美術本に載っているけれども、実物をみると・・・というじゃない。でも、そういうオリジナリティがもつアウラともまた違うものだった。

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合体する太陽と雨

東京の御徒町周辺にて。幾分か水滴の大きい雨がパラパラと降るなか、太陽が照っている。晴れているのに雨が降っている、雨が降っているのに晴れているというどちらでもない天気。天気予報では、雨のち晴、雨ときどき晴とか表現しているけれどもそのどちらでもない、境界などでもない、晴雨という表現のような一瞬。

日々はチョコレートのように

チョコレートを食べていて、ふっと思ったんだよね。板チョコなんだけれど、それは固体でパッケージされているじゃないですか。
食べようと思えば、板を手でパキンと割って、口にすると口内の温度や歯の圧力、湿度でドロリと固体が崩壊して、舌にチョコのほんのりとビターな味がしてくるんだよね。そして、粘度のある液体になって、わたしのなかに取り込まれていく。
そりゃあ、当たり前なんだけど、でもこのLL(ライブラリー・ラビリンス)を作ろうと思ったとき、このチョコレートみたいにしたいなと思ったんだ。

そう、板チョコという物質が少しずつわたしに取り込まれる感覚は、たぶんにわたしが何かをしていく過程に似ているんだと思う。例えば勉強するにしたって、そのまま体内にスッと入るのではなくて、体内に入れるように準備するということ。
そのまま飲み込もうとしたって、できないからね。
ここでは噛み砕いたものを出すということ。リキッドなデザインを選んだというのも根底はそこにあるかもしれない。

旅立ち

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