Filter

木を見るときに

“You cannot judge a tree by seeing it from one side only – As you go round or away from it – it may overcome you with its mass of glowing scarlet or yellow light. You need to stand where the greatest no of leaves will transmit or reflect to you most favorably…”

10月になって決まって思い出すフレーズに、ヘンリー・ダヴィッド・ソローの日記にかいてある一文がある。これは1860年10月9日の日記に書いてあって、ソローの日記をアーカイヴとして公開しているウェブサイトで知った(カリフォルニア大学サンタバーバラ校の図書館が公開している)。

ソローはフェア・ヘヴン湖をボートで漕いでいるときにこの風景に出会ったらしい。ソローは木をone side、ひとつの方向から見ただけで決めてはいけないと言っていて、木というのは周りを歩き回ったり、距離をとることでその見方を変えてみるということ。その後に続く”You need to stand where the greatest…”のところが重要で、自分の視点に立ってみるということ。そのとき、もしかしたら眩しいスカーレット、あるいはイエローの光を見つけるかもしれない。これは研究において、史料を読むときに心においておくべき言葉だ。

画像としてアップしているのは、ソローの日記(1860年10月9日)の部分。これを見ると、右頁の上から6行目の”stand where the greatest no of leaves”のパートでtが4つ並ぶのだけど、それを走るように横線を引いているところはソローの気分がのっているようでメロディックだ。

いい言葉でしょう?

瑞々しさの基準

宮城県・多賀城市にて。

何かに対する判断基準として、それが瑞々しいかどうか、というのがある。

ある機関で史料調査したときにひょっこりと紛れていた資料と出会った。それは鳥山博志『死の島ラブアンからの生還』だった。とても薄い私家本で、元は潮書房「丸」別冊3号(太平洋戦争証言シリーズ、1986年)を製本したものらしい。この冊子の最後に、鳥山さんはこんなことをした、と年賀状の内容を紹介している。書かれたのはおそらく1980年代であろう。

紹介してみたい。

 

「(前略)昨今、戦争の本質をあいまいにする危険な風潮を感じはじめたからです。国の動きの中にも・・・

憲法第九条は、先の大戦で戦没した二百十万人の日本人が私たちに残した遺書です。私は生ける証言者として、この遺書を守り、故郷を遠く離れて、護国という名目のためにジャングルの土となった人びとの言いたかった訴えたかったことを、その本当の心を代わって語り伝えていきたいと思います。戦没者の鎮魂は、靖国にあるのではなく、戦争の実態を明らかにすることの中にあります。反戦反核の決意を新年のご挨拶といたします。鳥山博志」

 

Continue Reading →

もぎとった果実のように、声を手渡す — 石牟礼道子

石牟礼道子『苦海浄土』『神々の村』『天の魚』を読了する。言わずと知れた、水俣を描いた三部作。

樹木から果実を取ったように、石牟礼が取る声が生(キ)のまま。それは文字という濾過を介していない。紙の上に、声じたいとして留まっている。人の声を一度すら聞いたことがないわたしにとって、その声は石牟礼が書き取るというよりは、石牟礼の手から絡め取られた声を手渡しされたように思える。

声の手渡し!

それが可能なのは、ひとつは方言なのだろう。その土地にまみれた口から出てくる言葉がある。標準語という極めて政治的な言語体系を逆行してやってくるからだ。 Continue Reading →

かろやかな人

危口さん。久しぶり。
 
昨日、京都の家に帰宅したあとに危口さんが亡くなったことを知った。今日がお通夜で明日はお葬式とのことで荼毘にふされ、新たな世界に行かれるまえに書いておきたい。
 
わたしは危口さんと3年前に知り合い、ときおりお会いしては立ち話をする関係だっ た。危口さんの本名は木口で、わたしと同じく姓に「木」がついていることもあって、木の話題もときおりあった。とくにわたしが家の立ち退きをうけたとき、 小さな庭にあった梅の木が切られることの納得できなさを最初に相談したのは危口さんだった。あのときは移植先への道を示してくれたことに感謝しているけれど、迷惑もかけてしまった。ごめんなさい。
 
悪魔のしるし『わが父、ジャコメッティ』では危口さんがお父さんの横に立って、お父さんのプロフィールが書かれたボードを掲げて二人で頭を下げるシーンがある。そのとき 客席では笑っているひとがたくさんいたが、わたしはすこしも笑えなかった。なぜなら、葬儀のシーンにみえたからだった。
 
一般的に、葬儀の場では喪主が故人のことを紹介する時間が設けられている。『わが父、ジャコメッティ』では喪服を着ていないし、当の本人が横に立っている のだから葬儀のようには一見みえないけれど、危口さんに「お父さんのプロフィールを書いたボードを掲げるシーン、危口さんが喪主として父の葬儀をやっているよね。客席は笑っていたけど、わ たしはまったく笑えなかったよ。」と話すと、危口さんはニヤリと笑って「ご明察」と答えた。それなのに、明日はお父さんが危口さんの喪主を務めることになっている。
 
危口さん、そりゃあ無いよ。『わが父、ジャコメッティ』と逆じゃない?

Continue Reading →

2016年

夢殿観音(明治時代・小川一眞撮影)

年末年始、帰省までの切符を受け取った瞬間、2016年の瀬を感じることになった。いつもは飛行機で帰省するのだけれど、今回は新幹線を利用した。深い意味はなく、たんに新幹線から流れる風景を見ながら作業をしたかったのだった。たいへんよく捗ったのでまた新幹線を利用してみたい。

さて。今年について。2016年は良い一年だった。全国に散逸している盲唖学校の史料を調査してきたが、ようやくボリュームとしてもクオリティーとしても一定のものを得ることができた。これまで、京都や東京しかみてこなかったので全国にどのように展開してきたのか、おぼろげながらつかめてきたのがこの年だといってよいだろう。 Continue Reading →

トランス/リアル - 非実体的美術の可能性 vol.5 伊東篤宏・角田俊也

誰かを抱いた時。

子供のころ、父や母に抱きついた時。愛おしい人に抱きついた時。

胸や背中が膨張を繰り返して呼吸しているのを覚えている。

角田さんの作品はそんな記憶を喚起させるものだった。スタッフに促されて手で木箱にそっと触れたり、スピーカーに触れるほど耳を近づけると振動があった。 Continue Reading →

岡山芸術交流 会場情報・アクセスについて

岡本太郎「躍進」(岡山駅にて)

岡山芸術交流においては、各会場の作品の配置を示したパンフレットが配布されていますが、一部展示の変更があったために修正したものも同時に配布されていました。この修正版はA3両面で、「更新版 会場情報・アクセス」というものです。
もちろん、公式サイトでも修正されているのですが、google mapを使っているためにやや重いです。そこで、この修正版を持って歩くととても周りやすくなるのでスキャンしたものをこちらにて紹介します。

okayama_art_summit2016_map.pdf

よい旅を!

瞼の非同期とインサーション

画像はαMギャラリーウェブサイトより

αMギャラリーでトランス/リアル - 非実体的美術の可能性 vol.4 相川勝・小沢裕子を見る。

ギャラリーに入ると点滅する部屋。休廊中?と最初は思った。それは違っていて、ギャラリーを出るときにスタッフから教えていただいたのだが、眼鏡に目の瞬きを感知する装置を入れていて、それと同期するように部屋全体が点滅するようになっていた。スタッフの男性に「集中できないんじゃないですか」と尋ねると「そんなことないですよ、同期しているのです」というような返事があった。確かに彼が目を閉じれば部屋は真っ暗になり、目を開けばまた明るくなる。蛍光灯だからその点滅の速度はきわめて早い。パッと点灯と消灯を繰り返す。

なんということだろう、と思った。 Continue Reading →

京都府立総合資料館と京都盲唖院

京都府立総合資料館の投書箱。
ときどきおもしろい投書がある。
一番笑えたのは「熊のプーさんは爬虫類ですか?」という質問。
答えは「質問の意味がわかりません」というものだった。

京都府立総合資料館。京都府民で知っているひとはどのくらいいるだろうか。京都の資料を取り扱う機関。わかりやすくいえば公文書館でありつつも貸出をしない図書館機能もあり、展示をする博物館機能もある、といえばいいだろうか。その京都府立総合資料館の新館がリニューアル・オープンするため、いまの建物が閉館になる。だからというわけではないのだけれども、2年前あたりからちょくちょく足を運ぶようにしていた。 Continue Reading →

歪んだ柱

広島。長崎。わたしは今年、原爆が落ちた街を訪れた。

いろいろと思うことはあるが、長崎の興福寺というお寺を訪れた時の話をしたい。ここは、実は長崎盲唖院の唯一の遺構が残されているお寺だ。桜馬場に新し い校舎が建てられる前、長崎聖堂で授業をしていた。その遺構がこのお寺にあるのだ。それをひととおり見学させていただいた。その後、美味しいお茶をいただ きながらお住職にお寺の歴史についてお話を伺っていた。お寺の雰囲気からわかるように、黄檗宗の寺院である(長崎と中国・西洋と盲唖教育というテーマもひ じょうに興味深いのだが)。

そのなかで、お住職はあれを見てごらん、と本堂の回廊を指さされた。そこには柱が建っている。

「柱が曲がっているのがわかりますか?」

「ええ、わかります。」

「あれは、原爆で倒れたんですよ」

えっ、と思った。というのはこの興福寺は長崎の市街地の南の方にあり、やや離れているのであったから。原爆による爆風が山を越え、市街地を走り抜けるとともに、建築をなぎ倒していった。

その瞬間、わたしの目にはある柱は、柱でなくなった。これは、まぎれもなく、原爆の永遠の、証言者なのだ。

倒されて曲がってしまった証言者は再び体を起こして、かつての場所から動くことなく建っている。これこそが重要であった。

瞽女の声

momatの吉増剛造展に。吉増が収集してきたカセットテープの束を見ていたら、瞽女に関するものが7本もあった。杉本キクエの名前が見える。杉本に関しては音源が出ているけれども、これらのテープはどうであろうか?

声、声、声を収集する吉増剛造。

DSC_0276_th

盲人と自分を見つめる

momatの常設展に中村彝が描いたエロシェンコの肖像画がある。常設ではスタメン、登場する確率が高い絵画である(右)。その横が中村本人による自画像(左)。エロシェンコは沈思するような表情で佇んでいて、視線はこちらに向いていない(それこそが、盲人を描いた肖像画としての確固たる地位を占めているのだが)。一方、中村は口をやや意識的に結び、彼の目はこちらを向いている。顔の向きは反対で、二人はお互いにそっぽを向いているかのように配置されている。 Continue Reading →

光の集合と終わり — 志村信裕《見島牛》

六本木クロッシング2016を訪問する。オープニングに伺って以来、しばらく見る余裕がなかったが、終了間際になって訪れる。

やや長いエレベーターをあがりながら考える。わたしは、どんなふうにして、美術と向かい合っているのだろう、と。 Continue Reading →

刻まれる写真 — 東松照明の長崎

ちょうど、わたしは長崎で史料調査をしていた。わたしは全国の盲人・聾者の社会とコミュニティを盲唖学校を通じて研究しているが、それを長崎に求めにきたのであった。
時代としては明治・大正であって、原爆が落ちる前の長崎の姿をみようとしている。
そこから延々と広島で資料調査を行ったのち、時間のあいまをぬって広島市現代美術館の東松照明展に向かう。
広島平和記念資料館からのバス「めいぷるーぷ」に乗ると、丹下の建築のまえで子供たちがピースをしている。深刻そうな表情をしている子はおらず、楽しげに走り回っている。このような風景がずっと続くべきだ。

バスに揺られながら考える。広島で長崎の写真が展示されることについて、原爆という二文字は欠かせないことになっていることは本来ならあってはいけないことなのだが、それ以上にわたしは東松の死後、という時間を考える。写真家の死は、現在を生きている被写体にとっては二度と東松のファインダーにとらえられる瞬間はおとずれないことを意味している。そして、被写体やわたしにとっては新たな時間が流れることでもあった。だが同時にこうとも思う。「原爆が落ちなかったら東松は長崎でシャッターと切らなかったのではないか?」 Continue Reading →

道後温泉にて

長崎、宇和島、松山と調査が続いていたので、息抜きをしたく、道後温泉本館に。松山では有名な観光地でまあベタなところだが一度見ておきたかった。

せっかくなので霊の湯 二階席をとって入浴する。今回の史料調査にあたって楽なことは一度もなかった。それにかつての盲人や聾者が置かれていた社会状況。それを考えると耳が聞こえない身体をもって生まれてくるべきではなかったかもしれない。生まれ変われるなら、耳の聞こえる人として人生を送ってみたい。聞こえないということが、わたしの身体に重くのしかかっている。 Continue Reading →

ニカッと笑う小西信八

小西信八が笑っている写真は珍しい。盲唖学校での集合写真ではこのような表情は見せない。嬉しいことがあったのだろう。

犀星の初版本グラフ

資料を整理していた時に出てきたもの。金沢にある室生犀星記念館でもらったのだと思う。本の装丁と出版年をグラフにしたもの。これは記念館にも同様の展示がされ、壁一面に初版本が配置されている。参考写真はこちら。

面白いのは上に行くほど時代が新しく、下に行くほど時代が古いという「地層型年表」になっていることである。

断章 ー 出窓の先に

新居に越してもうすぐ一年になろうとしている。出窓からの風景を見ながらコーヒーを飲んだり、朝食をとるのが楽しいのがこの季節かもしれない。夏になると日差しが強いだろうから。写真は12月のものだが。

最近読んだもの。大阪の盲人が書いた文章で、子どものときに親に連れられて当時大阪盲唖院の院長だった古河太四郎を訪問したという短い回想を読んだ。それによれば、「ぼん、これが何かわかるか」とあるものに触れられたという。それは瓢箪で「瓢箪です」と答えると、おお、よくわかるな、と返されたことを覚えている、というもの。
古河のユーモラスな側面があった。そう思えるのは、わたしと古河が短い付き合いではなくなったということでもあるのだろう。

はじめて古河のことを知ったのは、わたしが講師をしていた手話サークルで教養講座をすることになり、手話の歴史を知りたいという声があがったことがきっかけ。ひとまず、障害児教育史の参考文献を調べ、古河のことを知った。あの時の感覚は、単に京都の一小学校の教師だった、手勢という方法で物と概念を教えようとした、という印象しかない。その継ぎ合わせの知識で手話サークルで説明をしたことを覚えているが、こんなの知識じゃない、絶対に。血にも肉にもならない。知識の本質は、その人が何をしたか、ではなくてその人が何を目指したかを見せてくれるものだから。それを見つけるには、古河の家族構成や学歴、職歴からみた生の体系に近づかなければならない。そうすることで知識は知識として、はじめて言葉としてこの体から語らせてくれる。わたし自身が語るのではなくて、わたしの体が語ってくれる。

古河の言葉がしてくる。

「ぼん、これが何かわかるか」

部屋と欅

用事があり、旧居に行かなければならなかった。

わたしがかつて住んでいた居室の様子をみると、窓のある部屋に切り倒された欅が横たえてあった。毎年、元気に枝を伸ばしては、わたしを悩ませていた欅であったが、こうして君は部屋にいる。

君は亡骸としてあり、どこかに連れ去られるのを待っている。

初めて君の大きさを知る。かつて自分がいた部屋でもあり、スケール感が身にしみているからこそであった。君はひとつの部屋を覆う存在であったか。

手の重さ、部分の記憶体 — サイ・トゥオンブリ

1週間近く、雨や曇りが続いていたけれども、金曜日になって夏の日射しが感じられるようになった。サイ・トゥオンブリー展(原美術館)をみる。原美術館へはいつも品川駅の高輪口から歩いていくのですが、駅前から美術館への道で喧噪する空間が日射しとともにほどけていくさまが感じられる。
原美術館は障害者手帳を出すと半額になるので、550円支払って中に。いつもここは変わらない。常設もいつものまま。宮島さんの赤く表示される数字たちも相変わらず時を刻んでいる。わたしはトゥオンブリーについてまとまった作品をみたことがないので態度を留保していた。

絵をみていくと、絵には始まりもなければ終わりもないということを教えてくれるように思えた。グレーのペンキにチョークのような線がリズミカルに動いている絵をみれば、始まりの線、終わりの線は常に画面の外にあって、紙のうえにあるのはその中途であった。絵画を目の前にしたときに広がる世界はそこで完結しているのではなくて、絵の外にある世界のことに目を向けさせてくれる。手の動きが感じられる、という感想はたぶん多いかもしれない。自分でまねて見るとわかるが、トゥオンブリーのように大きく手を動かすと手の動きというよりは、手の重力や手の存在そのものが身体に実感されてくる。骨と筋肉、神経によって支えられているわたしたちの手があるということだ。この絵画に視線を戻してみるとそういうものが一切省かれていて「手の動き」「運動」というものだけが残っている。

Bolsenaというイタリアのボルセーナで描かれた2枚の絵の前にたつ。この2枚は四角形の枠に数字がランダムに並んでいて、下に沈殿していくかのような構図になっている。この絵の前にたつと、部分と部分それ自体は意味をなさないということ。それらが視線や意識によって結び合わせられることによって、化学反応のようにイメージがでてくる。すなわち、脳裏にある記憶そのものが現出しているように思われたのだった。

窓の脇で

先生。まだ先生の背中は遠いよ。

手形付き・足形付き土製品(大石平遺跡 青森県立郷土館蔵)

惹かれるなあ。

手形付き・足形付き土製品 大石平遺跡 青森県立郷土館蔵
粘土に子供の手や足を押しつけて焼き上げています。中央の手形は2歳前後、左右は1歳ころの子供ものです。子供の成長を願ったお守りとする説などがあります。

source:特別展「北海道・北東北の縄文」展示解説-第4回

最後の手段《おにわ》

(画像は有坂亜由夢さんのタンブラーより

イメージの祖父。
祖父のイメージ。

老いた男性が棺桶らしいものに包まれる。これは宇宙人『じじい -おわりのはじまり-』の映像でつかわれたものだと思う。連さんがそのときに一瞬顔をのぞかせる。《おにわ》はこのようなところから始まる。死を考えざるをえない。
祖父は自分の棺桶 — 箱のなかで庭をつくる。
わたしの祖父も自分の庭をもっていた。
女性(おいたま)が祖父と出会う。

わたしは去年の11月、祖父を亡くした。そのときは台湾に滞在する準備で慌ただしいときで東海道線で母に「台湾にいるとき、祖父にもしものことがあったらどうしようかな」と冗談めかしたことをLINEで送ったら、しばらくして東京駅かそのあたりで母からLINEで返信がある。

「いま、おじいさんがなくなったよ」

とあった。振り返って車窓から外を見上げたら、雲一つない空が広がっていた。ああ、おじいさん・・・台湾にいるから気をつかってくれたのかなと思いながら、芸大まで吉田晋之介さん《午前3時3分の底 -ひも億-》を見に行った。おかげで彼の絵と祖父の命日はつながっている。

祖父の火葬のとき、祖父の頭蓋骨が焼け崩れることなく、そのままごろんと転がっていた。

「おにわ」の「まつげ男」(とわたしは呼んでいる)の口元はけっこうな美少年を思わせる。稲妻のような絵が壁に描かれたコンビニエンストア。超巨大な木造建築物をかけあがっていくまつげ男。ふわふわした犬。滝のようにあふれるコーヒー。箱につつまれていく女。祖父が手 にする湯のみのおにわ。引き抜かれる富士山。さわると砕け散るスマートフォン。女性は箱に包まれて鍾乳洞をおりていく。口紅をつけるおいたま(セクシー・・・)。古代において鏡の力は、そのものが映ることだったとされる。キラーンとした窓。積木の彩り。あいかわらず何かが常に飛んでいるのも最後の手段らしい。

「おにわ」については、製作中のレポートで有坂さんが語っているところがある。

・・・『おにわ』は影なんです。光に対しての影、つまり裏面といいますか。民話や神話の要素に加えて実写映像も入れて、よりディープな作品にしたいと思っています。

祖父のおにわの空が一気に開かれると同時に、祖父の精神も弾けていて、希望に包まれている。わたしが亡くなるときもこうであってほしい、できることなら。

祖父は母に「ともたけは?」ときいたという。
それが最後の言葉だった。わたしは祖父の頭蓋骨をみながら、動かない口から紡がれる言葉を見ていた。

イメージの祖父。
祖父のイメージ。

盲人の視覚

雪ふかみ たはめど折れぬ 呉竹の 色やゆるがぬ 御代とこそしれ

この歌は、小杉あさという近代の静岡において東海訓盲院において活躍した盲人の女性が明治34年に歌ったもの。足立洋一郎さんが去年、静岡の盲教育史を扱った『愛盲』を出版されたのですが、このなかで小杉が扱われている。広瀬浩二郎さんの語りと交差するところかもしれない。去年の年末に広瀬浩二郎さんと伊藤亜紗さんと対談したものが伊藤さんのウェブサイトにアップされている。

前編:http://asaito.com/research/2015/01/post_21.php
後編:http://asaito.com/research/2015/02/post_22.php

後編で広瀬さんがかつて目がみえていたときに色について述懐するところがある。また個人的に広瀬さんが全盲になったあと、彼の文章のなかに人の身振りについて書いているところが不思議だったので尋ねたのだけれども、盲人が「色」「身振り」について語るところが興味深い。小杉の歌をみると、呉竹の色や・・・とまるで竹に雪が積もっている情景が見えているかのよう。塙保己一の視覚について論じた論文もあるし、盲人の視覚というのも今後のテーマになるだろう。

後日談になるけれども、わたしがギョッとして何も言えなかったところがあって。

広瀬 こちらこそ、楽しかったです。これだけ盲とろうの人がじっくり話しているのは貴重だと思いますよ。

広瀬さんはわたしの横にいるのに盲人と聾者はお互いの姿を認識できないくらい、あまりにも離れてしまっている。近代から今日までの時間の重みがずしりとのしかかってきたのであった。