20220117

京都から自宅に戻る。ソフトキャリーにあるものを荷ほどきするまでが旅。夕食を軽く食べたのちすぐに寝る。なんだか変な夢を見た気がするが忘れてしまった。起床したらとても喉が乾いていたのでパジャマのまま冷蔵庫から水を取り出して一口、二口と身体に沁みてゆく。身支度をしながら、ドリップパックコーヒーを淹れる。豆を挽いたときのかおりはとてもいいが、このパックもけっこう余ってしまったのでバタバタしている朝はこれでいこう。出かけ際にポストに入っていた郵便物のチェックをしていたら、遅刻しそうになったので古書店からの目録だけを片手に家を飛び出て、電車のなかで欲しいものがあるかどうかめくる。近世の人文学の文献を扱う書店で、ほとんど知らないタイトルばかり。欲しいものがなく、早々にバッグにつっこむ。なかなか目当てのものには会えない。もうだいぶ前になるが、わたしが研究している範囲の中でとても珍しい史料もあったのだが、注文した時点ですでに売れていた。植民地の盲唖学校で発行されていた雑誌だが、もう出会うことはないかもしれない。これもまた人と同じく縁だろう。京都で収集した史料をスキャンし、整理したのちに授業。一ヶ月ぐらい間が空いてしまったので復習に時間をかけて対話をしていった。

20220116

1月16日。今週の疲れが出たのか8時間も寝てしまう。目覚めてコーヒーを淹れる。普段は豆から挽いているが、ホテルのためスーパーに売っているドリップパックコーヒーを開ける、なかなか美味しい。サラダとパンを食べ、荷物をフロントに預けたのち、バスに乗ろうと道に出る。この瞬間、自分がどこにいるのか自覚する。ホテルのなかではなく、街路に出たときに自覚するのは、ホテルが場所性を持っていないからだろうか。ここが京都である、ということを示すものが何もなく、匿名の感じがする。日曜日だからゆっくりしたいところであるが、京都新聞に掲載しているAlong the Waysideの原稿を書かないといけないので岡崎に向かう。下車してすぐに京セラ美術館で加納俊輔の個展と、コレクション展を見たのち、向かいの府立図書館にて明治期京都の代表的な新聞のマイクロリールをリクエストして、マイクロリーダーを回しながら確認していく(近くの京都国立近代美術館での上野リチ展は、金曜日の夜間開館のときに見ていた)。マイクロフィルムはフィルムをトイレットペーパーのように長く巻いていて、それを解くと撮影されている画像を見ることができるのだが、そのためにはマイクロリーダーが必要。これは手回しと機械で回すタイプがあって、ここにあるのは機械。ジョグを回せば高速でマイクロを回せるぶん、細かく動かすことができない。手回し式が自転車とすれば、これは車に乗っているような感覚に近いかもしれない。ジョグを回しながら、回るマイクロのスピード感を掴んで機械と身体をフィットさせる必要がある。周りは市民の方々であろう、のどかな姿勢で新聞を読んでいる人たちに囲まれながら、わたしはマイクロリーダーの画面越しに明治の京都を流れていた時間とともに過ごしていた。

20220115

1月15日。昨日の雪はもう見えなくなっていた。朝、ゆっくりとクロワッサンとコーヒーを飲みながら考える。歴彩館まで調査に出かける。昨年、途中まで翻刻していた古文書を予約していたのを出してもらい、続きに取り組んでいた。翻刻は古文書をそのまま写すことで、ノートに書くかパソコンを使うかの方法があると思うのだけど、iPadとApple Penが出てからはこの方法が一番良いように思う。テキスト化しつつ、手を動かすことでその文が体内に入ってくるように思うからだ。丹念に読んでいくことで史料の位置付けも想定できてくる。やり終えて間違いがないか確認作業も終え、明治・大正期の行政文書も閲覧し、ノートを取る。昼、セミナー室では「写真の撮り方」なる講座をやっており、けっこう混んでいたのを横目に昼食をする。以前、ここは京都府総合資料館という名で、今の建物のすぐ北側に建物があった。今は旧建物だけが残っているのだが、そこにもよく通った。1階はいつも高校生がたくさんいて自習をしていて、わたしは2階にある閲覧室にこもっていたのだった。この一帯はこれから再開発として府立大の芸術関係施設ができるという話を聞いたことがあったが、まったく進んでいないようだ。コロナもあるし、当分そのままだろう。旧建物の階段を登るところにシスティーナ礼拝堂のミケランジェロの天井画の一部の原寸大が飾ってあった。あまり忠実とはいえないが、妙に印象に残る空間だった。調査を終え、次に閲覧したいものの予約をして出る。
地下鉄で有斐斎弘道館まで。今出川駅を出ると、同志社の茶色の建物がみえる。コロナウイルスの流行があってからは調査に行けなくなったので本当に久しぶり。途中、金剛能楽堂の前も通る。一度だけ訪問したことがあったが、宗家と奧さまはお元気だろうか。調査で訪れた時にいただいた洋菓子の濃厚さが舌に蘇ってくる。弘道館につくとたくさんの靴が並んでいた。見学かなと思いきや、課外授業とのこと。汲古庵という、床の間に格子があるというおもしろい設えの茶室で太田達さん、太田梨紗子さん親子にお会いする。最近書いたテクストをお渡しする。また、和菓子のお店をされている方なので何を持っていくかどうか迷ったが、自分自身が美味しいと思うものということでマールブランシュの小さなパイも持っていった。太田さんは以前、応挙寺こと大乗寺のご論文を書いておられ、わたしの論文を引用している。わたしのは10年前に書いたものだが、お話をうかがっていると、当時の自分が考えていたことの成果や課題が感じられてくる。書く前はわからないことが多かったのに、今はだいぶあの寺のことが鮮明に見えつつある。思考の痕跡を形にしておくことは大事だ。ほか、太田さんから若冲の研究についても少しお話を伺い、わたしが長年考えているテーマとも相関がありそうで興味を深めた。話のさなかで、花びら餅と抹茶をいただく。花びら餅は正月にいただくものだという。ごぼうは正月の縁起物としてわたしの実家でも出てくるけれど、餅に巻くとはまったく想像していなかった。ごぼうの切り方がきれいで甘く、思わずにやけてしまう味。ところで、弘道館の建物は幕末から昭和にかけて少しずつ増築しており、かつては皆川淇園の学問所の跡地でもあったという。日本史の儒学は明治とともに衰退し、学校教育としての修身に置き換わっていくが、明治末期は顕彰事業とともに京都では儒学が流行した兆しがあって、街のあちこちに塾があったことを思い出す。こうした私塾の成り立ちと淇園について考えるのもおもしろいだろう。誰かが書いていたが、ローマ、ロンドン、京都という何世紀にも渡って町としてあったところは時代ごとの時間が折り重なっている、ミルクレープのように。

20220114

1月14日。外はちり紙を小さくちぎったような雪が降っていた。その軽さに世界から重力が少し失われたかのようだ。ぎりりと雪を踏みしめて歩く。ピーコートに雪がひっついてしろみが抜けて水になろうとするけれども、次第に乾いていってしまう。ペンギンのようにじっとしながらバスを待っていた。ベンチには打ち捨てられたかのような雪だるまがあった。昨日に続いて史料調査に出かけるためだ。史料を見ながら、分析と考察の可能性を考えながらノートに書き留めていくだけで一日が過ぎていく。調査を終えてパンを買いに行き、夜は知人と少しだけ話をする。コタツを出さないと決めていたのに、寒くて誘惑に負けて出してしまったという話に笑ってしまう。

20220113

1月13日。木曜日。2年前のことになる。やらなければならない研究についてテクストを書いていた。お世話になっている先生に読んでもらったところ、深く突き刺さる不備点を指摘された。その問題を解決する糸口をたどりに史料調査に出かける。史料を閲覧し、あらためて研究全体の位置付けを考える。史料の翻刻と撮影をしながら、頭に浮かんだことをノートに書き、仮説の検証のための分析と考察までの道筋を考えていたら1日が終わった。オミクロン株の流行で浮ついているような気配のなか、帰りのバスのなかでぼんやりしていたら、前の席のおじさんがiPhoneの最新である13でポケモン収集に勤しんでいた。外の風景とシンクロする画面。それに夢中になりすぎたのか、いきなり背をピンと伸ばして駆け足でバスを降りていく。しばらく行ったところで降りて、とんかつを食べて、お菓子を買って帰る。この通う道もだいぶ慣れてきた。この慣れというものが、今日考えていた研究の終着点にたどりつかなければならないことを告げているように思った。

20220112

1月12日。部屋で工作をしていて。それはソフトキャリーのタイヤを修理することだった。けっこうすり減っていたのでパテを埋めて形を整えるのにカッターを扱っていた。プラスチックを削っていたわけで、黒いタイヤに白いパテがまだら模様になっていたところだった。そこで、何かが飛んできて眼に刺さってしまった。カッターが突然折れて飛んだのである。あっと気づくとカッターの欠片がテーブルに落ちる。さほど痛みはなかったが、しかしじっと眼を動かすたびに痛く、経験したことのないことだった。近所の眼科に行って説明をすると、眼科医が心配そうな顔で検査をしてくれた。結果、かなり危なかったとのことで角膜に傷があるといわれた。点眼薬を2つ処方されて通院する必要があるとのこと。そのあと、日本で視覚障害者の生活支援をするライトハウスを興した岩橋武夫のことを思い出した。岩橋は早稲田在学中に失明して中退しているのだが、その自伝的小説『動き行く墓場』を1925年に出している。岩橋が出した初めての本で、眼に異変があり、見えなくなるまでのことが書かれている。眼科の話に戻るが、その検査というのがフルオレセイン試験紙を角膜にたらして、青色の光を当てる検査で、普通の検査ではわかりにくい角膜(黒目のこと)の傷の具合が判明するというものだった。わたしは初めて受けたが、青い光が眼全体を覆っていて、スペクトルというか、自分の世界が青で満たされていてちょっと忘れがたいものだった。その青を浴びたとき、わたしのこの経験が岩橋の眼が見えることと、見えないことの間で苦悩していることのはざまにあるように思われたのだった。

20220111

2021年1月11日。火曜日。この日記は昨日アップするつもりだったが、手元にあるMacbook Airの調子がすごく悪くなってしまった。起動がものすごく遅くなっており、起動するだけでも30分近くかかる。昨春にも同様のことがあり、OSを再インストールすることで解決したがそれが再発した。また再インストールするよりは原因を探ると、kernel_taskに問題があることがわかった。これは何かといえば、CPUにあえて高い負荷をかけて、それ以外の動作を抑えることでCPUの温度を下げようと仕組みだという。だが、ファンの不調でパソコンの温度が高くなっている可能性もあるので、ファンを何度か掃除したり、SMCのリセットなどをやって解決したが、このプロセスを見てひとつ思うのは人間の発汗と似ているなということだった。発汗はいうまでもなく、汗をかくことで熱を捨てて体内の温度を下げるシステムだ。血流量を増やして皮膚の温度を上げることで内部の温度を下げることと、CPUの負荷を上げることで温度を下げていることに気づくと、パソコンの温度が妙に生っぽく感じられたのだった。

20220110

1月10日。月曜日の祝日。宅配便が2つ届く。ひとつは玄米、もうひとつが鴻池さんの個展で展示した手紙。玄米から米袋を取り出して箱をそのままにし、もうひとつを開けて手紙を読み返す。昨年末までの個展で展示しているときは手紙が手元になかったわけだが、最後の日付の手紙にたいして返信を書くにはそれを脇に置かなければ書きづらいということに気づく。また、ギャラリーからの手紙もあり、個展で置いていたわたしの論文の抜刷りが完売していたことを知る。数部しか置いていなかったのだけど、全部売れるとは思わなかった、もっと持って行けばよかったかな。
インターネットのニュースで藤井と渡辺の王将戦の結果を知る。最後の分将棋はジェットコースターのように駆け巡っていて両者ともかなり疲弊したことだろう。そろそろ現地調査の準備にかからなければならないのだが、キャリーケースのゴムタイヤが割れてしまっていた。接着剤で応急処置をしていたが、隙間ができてしまっていたので買っておいたパテでタイヤを整える。明日は機材のチェックや見るべき史料の再検討をする。他にも連載の原稿を書かないといけない。今月の山にさしかかってきたところだ。

20220109

1月9日。日曜日。曇と晴が混じるはっきりしない天気、食パンを焼く。焼いたものをさらにオーブンで焼いてカリリとしたものを少しだけ砂糖を足したカフェオレに漬けて食べる。表面はしみこんでいるが、奥の方はしみこまずに硬さが残っている。歯でパンを切り裂いた時に伝わってくる硬軟の感覚に、カフェオレがパンの中から出て行こうとする動き。それは、ぐっと何かを握りしめたときの反動とともに出て行こうとするものを口の中で捉えるということだ。それは本を読んでいたり、美術館で作品を見ている、映画を見ている時は、いずれも目の前の現象に集中しているわけだが、何かひとつの考えや視点が定まっていく際にジュッと押しのけられて出て行く思考がある。つまり、ある思考がまとまっていくなかで捨てられていく過程があるのだけど、ほんとうはそこで押しのけられて出ていったものを受けとめる皿というものがあるからだろう。打ち捨てておいてもいいかもしれないが、それがあったということを記録することは意識したい。パンをかみしめて飲み込むまでのあいだにそう考えていた。

20220108

1月8日。土曜日。知人に誘われて都現美で「クリスチャン・マークレー トランスレーティング[翻訳する]」をみる。マークレーの《The Clock》はヨコトリで強く脳裏に残っている。そのときは映像のサンプリングがすごく凝っているなというのが第一印象だったけど今回の展示は違う。端折っていうと「動きから動きに」だった。認知言語学では意味の基盤である「ベース」と、そのなかでその語の意味が示す「プロファイル」がある。たとえば、腕は体をベースとし、肩の付け根から先の部分をプロファイルする。手は腕をベースにし、手首から先の部分をプロファイルするということだ。だから、ベースとプロファイルは互いに不可欠であるとするのが認知言語学の考えとしてある。
けれども、マークレーの作品のなかには、腕が腕そのものをベースにもプロファイルにもしているように知覚してしまうところがある。言いかえると、腕は腕をベースにし、腕の付け根から先の部分をプロファイルする。腕と腕が繋がっているという認識のしかたになってしまう。こうした、ToとFrom。あるイメージ自体が脳裏から立ち去ろうとした瞬間(From)、別のところから同じ種類のものがやってくる(To)。たとえば、《リサイクル工場のためのプロジェクト》ではリサイクル工場でブラウン管のディスプレイを壊してパーツを分けている映像を、プロセスに沿って円を描くように細かく配置している。ぐるっと歩きながら見れば工場での作業が終わることはない。そのうえに、その映像じたいを近い型のディスプレイで見せている。これらを認識したとき、ディスプレイが「ToとFrom」になった瞬間であって、ディスプレイがリサイクル工場でディスプレイを解体するさまを映している、解体されて形を失ったディスプレイをディスプレイが映しているという知覚が続いていく。
ほかにも《ミクスト・レビューズ(ジャパニーズ)》は手話で語る映像で、言語、音、風景、行為などいくつかの表現のレイヤーが複雑に絡みあっている。手話、音があり、風景があり、行為が現れる。豊かなすばらしい表現だが、わたしの目を強くひいたのはこれらの表現がいずれもたったひとりの身体で表現されているということだった。これは、ソースとなるつながりのない短いレビューがミキシングされているからだろうか、物語る身体が「ToとFrom」の双方を兼ねる効果を作り出している(これはおそらく、ナラティブというものが備える自己生成の問題でもあるだろう)。身体が手話を語る、手話が身体を語る。身体が風景をあらわす、風景が身体をあらわす、身体が音を立てる、音が身体を立てる・・・と知覚された。
話はそれるが、展覧会のウェブサイトに掲載されている、マークレーの言葉「矛盾してるようだけど、私は音について、それがどう聞こえるかということだけでなく、どう見えるかということにも興味があるんだ」わたしは以前、『知のスイッチ』に収められている「ひとりのサバイブ」という論考を書いているがそのはじめで国木田独歩の『武蔵野』を取り上げているが、その言語経験に近いものがある。
参考までに《ビデオ・カルテット》には身体障害者の映る映像が3つあるように見受けられたが、その元となるソースは「ピアノ・レッスン」「何がジェーンに起ったか?」「黄金の腕」である。ほかにも、《レコード・プレイヤーズ》は何人かでレコードを叩いたり引っ掻いたりする短い映像だが、レコードの黒い円と人の表情の見えにくさがドイツ表現主義のあの暗さを思う。マークレーを見て知人とお茶をして別れる。その後に久保田成子展と、コレクション展をみたが、その話はまた書いてみたい。帰りの電車のなかで周りは部活帰りの大学生にダウンジャケットを着た人がみえる。大学生の足元にNIKEのエアーマックス95のリメイク。ハイヒールなど硬い靴を履いた人が乗ってくるとその人の足音がわたしの足元に伝わってくる。

20220107

朝、タブレットで新聞を読みながらコーヒーを飲む時間が、一日のエンジンをかける時間になっている。朝光がびたびたに残雪をとかしている。窓から見える外のアパートの屋根にカラスがいて、残った雪を蹴とばしていたのが人間っぽくみえた。作業で必要になったSDカードを部屋の中で無くしてしまい、探すも見当たらない。中身はバックアップしてあるのでデータは大丈夫なのだが、肝心のカードをどこに置いたものか。年末の大掃除のときに間違えてゴミ箱に入れてしまったのだろうか、なんともすっきりしない。懸念の研究計画について時間をかけて検討をする。本文を手直しするか、史料を検討するかを考え、後者を選び、史料を閲覧できるように準備を進める。
『ショア』2枚目をみはじめる。まだ全体の半分にも達していないが、このあたりで風景と関係者の語りが交互にあらわれるのに気づく。風景は、ユダヤ人収容所跡に建つモニュメントや墓という人影がほとんどないものと、駅舎や街中といった人のいるものがある。収容所関係者を盗撮し、インタビューをしているシーンがあるが、ガス室での殺人と、どんどん送られてくる収容者、遺体の処理が間に合わずに建物の横に遺体を積んでいたという回想がおぞましい。その積まれた遺体の山から血などが流れ出て悪臭を放っていたという。これは人類だけでなく、大地をも蔑ろにすることではないだろうか。大地を蔑ろにするというと、写真家ルイス・ボルツの“Candlestick Point”というアルバムも思う。放置されたサンフランシスコの海岸を埋立地にしたところで、廃材やタイヤがゴロゴロしていた風景を撮影した写真だ。夜のカーテンから外を見やる。朝はあった雪は溶けていて、昨日の風景がまぼろしのように思えた。だがまぼろしではない、確かにそれはあった。

20220106

特別快速の電車に乗る。停まる駅よりも停車しない駅の方が多く、ただ風景が流れていく。電車のなかで話をしているふたりの女性がいた。双方ともマスクをして、相手を見ながら頷いている。頷きによって発話が担保されているようにみえる。なぜだろう。『ユリイカ』に書いたぬいぐるみ論でも頷くことによって発話することを書いたな。明るい紫色の手袋をしている女の子が座席に脛をのせて外を見やっているのにつられてわたしも外を見ていた。少し舞っていた米粒ほどの小さな雪があるだけだった。夕方になるとそれは白いスクリーンをあちらこちらに被せていた。
『ショア』をみる。ブルーレイは3枚組で、1枚目を見終えた。収容されて生き残ったユダヤ人たちの語りに、今度はナチス側の人たちが語るシーンが入っている。昨日は通訳が入っている関係で、字幕が語りよりも遅れて出てくることを書いたが、エルサレムやバーゼルにいる当事者やナチス側の人物は語りと字幕が同時に出ている。なぜポーランドにいた人たちだけ遅れて出てくるのだろうか。地理的な距離の表現のためだろうか。この『ショア』にも、アウシュヴィッツの門のシーンで雪がうっすらとあった。そのとき、わたしの目の前を舞っている雪が、1940年代と2022年のあいだにある時間を鮮やかにつなげてしまう。80年前の過去が、つい今日起きたことのように。

20220105

1月5日。夜はひきつづき『ショア』をみている。まだ第一部。監督のクロード・ランズマンがユダヤ人の連行を目撃したポーランド人たちにインタビューをしているシーンがある。ホロコーストだけでなくときおりの雑談も入っている、ホロコーストを語るための潤滑油のように。ポーランド語だろうか、その人が語り、ランズマンの隣にいる人が通訳しているときに字幕が出ている。ランズマンもこのことを語っているようだ。目撃者がそのことを回想している表情と、言語である字幕が交互に表出されている。思い出すことと語ることが切り分けられていて、あの出来事がオーヴァーラップしている。声に重りがつけられたように遅延しているぶん、ゆっくりとホロコーストのことが近づいている。ろう者と手話通訳でいうと、ろう者が手話で語っているときに手話通訳が追いかけ再生するように、その手話を音声に通訳している。ろう者が手話で語る様子と、遅れて手話通訳の声が聞こえてくるようなシーンを思わせた。手話で語るとすぐ声が追いつこうとする、それが手話通訳の仕事であるが、だけど、ろう者が手話で語るところをしっくり見せてもいい。
朝食は食パンにバターかハチミツをのせて食べることがほとんどだが、今日はマーマレード。昨年、三菱一号館美術館で「イスラエル博物館所蔵 印象派・光の系譜」を見たあとにショップに売っていた、オクスフォードのヴィンテージ・マーマレード。瓶にナイフを入れると、つややかな面の岩石が切り出されてくる。発掘現場からオレンジピールが封印された琥珀が発見されたような。5枚切のパンにつけると、朝光を受けた琥珀色が際だちつつも、砂のように崩れていって陽気の春の土を思わせた。パソコンを開く。昨日よりもあちらこちらから連絡が入りはじめ、メールを見ている時間が多くなるのは、そこここで仕事始めを迎えているからだ。途中、いろいろと思い出しては短いメールを入れる。途中、北村陽子『戦争障害者の社会史―20世紀ドイツの経験と福祉国家』を精読しはじめる。今年の仕事のために昨年入手してあった。先行研究へのレビューが丁寧で議論の土壌が丁寧につくられているところがすばらしい。

20220104

1月4日。昨日の夜、風呂あがりに『ショア』の続きを見はじめるが30分もしないうちに瞼が重くなる。第一部の途中で、収容所に閉じ込められたユダヤ人だけでなくその家族も登場しており、ホロコーストが世代を超えて波及していることがすでに示されていた。起床すると白いカーテンを通り抜ける光がほんのりとしていた。年末年始にきていたメールといえば、毎朝配信されるニュースやネットオークションのアラートといった決まった時間の自動的、機械的なものしかなかったが、今日になって昨年末に出してあった電子メールの返信がメールボックスに少しずつ入ってくる。電子メールは不意なものだ、なんの前触れも予感もなくやってくる、遠近感がまったくない。よけいそう感じられるのは昨年、鴻池朋子さんと手紙のやり取りをしたとき、書いて封筒に包むことからポストへの投函、配達員で手から手にわたっていくところを感じていたからだろう。メールの画面に、未読のメールであることを示すボールドがかかっているところがランダムに積み立てられていくところをみると、今年というモーターが回り始めた振動として伝わってくる。このパソコンの画面やLANの向こう側にある手が、キーボードをタイプするときの振動や、メールを送ろうとする肉体の脈動のメロディーが、メールボックスをポップインするとき、この一年が音を立てて稼働していく。

20220103

1月3日。浮かれるような気持ちが衰えて、日常がむっくりゆっくり立ち上がってくる時間が漂っている。昨日の夜からクロード・ランズマンの『ショア』を見始める。ディディ=ユベルマン『イメージ、それでもなお』にて言及されているのが知ったきっかけだが、上映を見逃したり、ソフトが手に入らなかったりで今になってしまった。ホロコーストを生き残ったユダヤ人の証言からはじまる。ほほ笑みながら過去のことを語る当事者に「なぜほほ笑むのですか」と尋ねると「泣きわめいた方がいいのですか?」と返す。笑う、泣くのあいだをよろめくようなシーンで、思わず停止ボタンを押してしまいそうになる。クローズアップも多く、人の口がよく見えるのは、ポストコロナのマスク社会で人の顔が見えなくなったということの返歌にみえる。
ツイッターで山本浩司さんが武井彩佳『歴史修正主義――ヒトラー賛美、ホロコースト否定論から法規制まで』について書評していたのを読む。山本さんは誠実な仕事でいつも注目し、信頼している歴史家だ。本年刊行が予定されている辞書があり、担当している項目についてゲラを何度か読み返して精査する。字数がかなり限定されているので多くを盛り込むことはできず、その項目について研究をしたことがあるので背景や知識があっても、その髄となるものしか残らない。かなり圧搾されたシェープな文章になったと思う。これでいいと思うところまで確認を続けた。溜まってしまった洗濯物を洗い、布団を干す。この季節になると陽光が低く、部屋の奥まで光が射し込んでいて美しい。光が消える頃にはいつもの調査ノートを読み返し、今度の調査について方針を確認する。空が澄んでいる日の夕焼けは橙色が薄く、静かな今夜を予感させた。

20220102

口絵 深沢七郎『楢山節考』昭和32年、中央公論社

新年の二日目、1月2日はいつも何かがゆっくりと始動しようとするときの緩さがある。お雑煮が余っているので昼食にあてて、窓際においている椅子で読書をする。年末に買ったもので、南側から太陽があたる暖かいところ。カーテンのレースを背中に、椅子でいろいろと本を読む。筒井『社会を知るためには』を読了。社会とはわからないものであるということから社会理論を紹介していくプロセスがおもしろい。ギデンズの社会理論は「行為と社会の関係は「緩い」」ことを捉えているという。続いて深沢七郎『楢山節考』を読了。最後に「つんぼゆすりの歌」がある、深沢が「「ろっこん〔六根〕」と云うたびに肩をゆする」のにあわせて声をあげてうたってみる。口絵にギターを手にする深沢。奥にみえる女性の背中と作中の歌が入り混じっていく。おやつにきな粉餅にコーヒー。餅の柔らかさと甘さ、きな粉の甘さと粉っぽさ、コーヒーのビターさ。白と黄金と焦げ茶がわたしの中ですれ違う。この出会いを舌でひっさげながら、YouTubeをタップすると藤井風がライブで歌っていた。口の動きと手がカメラを向いてキーボードを弾き語る藤井、ことばとメロディーがひとつになっている。重めの髪型、袖がゴムになっていないゆったりめのジャージ。一曲を終えると寝転んだままひとり語りする藤井。新年の二日目という緩さがあった。

2022年はじまり、はじまり

これまでツイッターでは日報としてひとつのツイートだけで完結させていたけれど、今年からはこちらに戻ろうと思う。理由はこちらの空間が懐かしくなったからだ。

2022年の元旦、目覚めるとカーテンからの陽光がまぶしい。カーテンの襞が上下のラインを生んでいるのと、立てかけてあったテーブルの短い足が斜めに交差し、シルバーに輝く足に光が反射しているのに見とれながら起床する。

先日から準備していたオードブルを並べていたが、なんだか色が足りない。黄色だ。卵焼きを焼こうと思い立つ。卵焼きはふたつのレシピしか知らないのだけど、そのひとつが母直伝の、やや多めの砂糖と少しの塩に水だけで仕上げるものだ。普段はつくらないが今日は母のレシピで卵焼きを焼いたのをオードブルに載せて正月が始まった。お雑煮もいつものように、どんこ、水菜、鰤、お餅、かまぼこ。家族と会話をしながら新年の話題。今年も元気でありますように。

あまりにも天気がいいので、オードブルもそこそこにピーコートをまとって近所の公園に出かける。家族連れでにぎわっていたが正月らしく凧を揚げようとしていた家族がちらほらいる。多くは中途半端に凧が落ちてしまうのだけど、ひとつだけ木々をはるかに超えて高くなっているものがあった。それを見ながら日光を浴びる。

部屋に戻り、新聞を読む。元旦は書店からの広告も大きく載っているので新年早々モチベーションがあがる。ほか、iPhoneを開いて前から気になっていたAnker Nebula Vega Portableの仕様を確かめる。天井に投影できるプロジェクターが欲しいからだが、自室は梁が大きく出っ張っている天井であるのと、照明器具の位置関係でうまく投影できそうなスペースがないので諦める。積ん読になっている筒井淳也『社会を知るためには』などを読む。

もち米を蒸してお餅にする。ふにふにしていて美味しそうなのを、きな粉餅にしたのを食べながら書いている。
今年はどんな一年になるだろうか。

2022年 1月 01日(土) 22時13分55秒
壬寅の年 睦月 一日 甲寅の日
亥の刻 三つ

身体を光で切り刻む — 宇佐美圭司の芸術

7月2日、雨の日。東京大学駒場博物館の「宇佐美圭司 よみがえる画家」を訪問する。

わたしは東大の史料編纂所や明治新聞雑誌文庫でリサーチをして昼食を食べるときに食堂を利用することがときどきあった。そこに宇佐美の《きずな》が置かれていた。一見したところ、絵画というよりは一種のダイアグラムのようにみえた。それは、わたしが建築学を専攻していてダイアグラムを多く見ているのと、片隅にシルエットの説明がつけられていたからだろう。けれども、食堂は人通りも慌ただしく、あまりゆっくり見ている時間はあまりなかった。そうしているうちに、それは撤去された。撤去されてしまわなければ、こうした今回の企画もまた無かったにちがいない。このことはこの厚い雲のようにわたしの気持ちを曇らせている。

駒場博物館に入ると、宇佐美展のポスターが置かれていたので1部いただく。失われた《きずな》の再現画像がメインビジュアルなので、できればいただいた方が良い。初期から晩年までを厳選し、構成された展示をみていくと、身体障害について考えるときに示唆深いものがある(わたし自身の視点がそれに依っているという点も自覚しているが)。
なぜなら、「身体障害」はその人の身体に在るのではなくて、大衆の認識、メディアといってもよいだろう、その中で形成されている身体だからだ。障害学では「社会モデル」という身体障害の捉え方があるが、それに近い考え方だ。

宇佐美の芸術を通してみることで、それがよくわかるように思う。補助線として、ふたつの視点を提示してみたい。ひとつは、プリベンション(予防装置)ということばを使っていることだ。それと、身体をなぞる輪郭線を使ってマスキングしたことだ。プリベンションについて、宇佐美は「芸術家の消滅」でこう書いている。

「プリベンション(予防装置)の概念を、障害物であると同時に、それと相反する、導入するとか、誘導するとかの意味を持った、克服されるよう計画された障害装置、という両義性において使用したいと思う」

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ある女性と自由

昨今の黒人や女性の人権、香港における言論の自由といったことについて、思い出したことがある。

日中戦争で戦死したひとたちのなかに、原田愛という人がいる。
「愛」は「めぐむ」とよむ。最終階級は中佐だから高位である。鳥取県出身で戦死後に市民葬が営まれた。原田は陸軍士官学校を出て、少しの間だけ代用教員をした以外は、生粋の軍人であった。原田には遺児が3人おり、長女を久美子といった。

やがて戦争は終わった。父はもういない。

久美子は故郷・県立鳥取図書館に勤務した。そのかたわら『因伯民乱太平記』の翻刻をまとめている。あとがきによれば、鳥取藩に打撃をあたえた一揆についての史料が知られないままでいることを惜しんだようだ。そうして、原文を忠実に翻刻しつつ、補足を上に添えるという丁寧な仕事をされている。そのあと、1953年に京都に転任し、京都府会図書室、のちには京都府立総合史料館に勤務している。
3年後、久美子は1956年には京都府の自由民権運動を大きく推進した天橋義塾の存在を知ることになる。これに関連する業績として『京都府議会歴代議員録』の編纂、天橋義塾をはじめとする京都の自由民権運動の研究を立て続けに出し、知られる存在となった。

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重力をつきぬける — 齋藤陽道『感動、』

齋藤陽道『感動、』(2019)より

フョードロフにとって重力とは原罪に似ていて、人類を下方へ、大地へ、横臥状態へ、最終的には死へと縛り付けるものであり、重力の克服とはとりもなおさず死の克服を意味していました。(本田晃子)
『人間の条件』における「墓碑」より

写真集をめくることをなんと表現するだろうか。読む、見る、ながめる・・・。齋藤陽道『感動、』(2019)は「突き抜ける」ではないか。そんな写真集だ。それはおりにふれて齋藤の写真を見てきたが、明確に言葉にしていなかったことを自省する時でもあった。

基本的な構成は前作『感動』(2011)と同じで、横長に写真を配置しているが、前作がソフトカバーだったのに対し、シルバーのかかったハードカバーで「感動、」の黒い字が箔押しされており、重量感のある仕上がりになっている。

ところで、わたしには『感動』と『感動、』はまったく異なって見えた。まず、見開きの色のバランスといった構成が深化しているというのもあるが、それよりもあちこちに散らばっていく生に対するシャッターとしての写真と呼応するかのように、レンズが、カメラが、透明度を高めていた。そう思えるのは、水のなかを撮っているように思われても、浮遊しているかのような写真やそこには空気があるのか、ないのか。重力があるのか分からなくなるような瞬間があった。
本来ならば、写真とわたしの間には、世界をあるきまわる齋藤の身体、彼の身体を支える足、視覚、聴覚、カメラを支える手、シャッターを押さんとする指、食べ物をほおばる口、咀嚼する胃、現像、プリント、印刷といった多くの身体と所作と機械が関わりあっているはずだ。なのに、わたしは齋藤の身体を突き抜けて、写真、いや重力すらも突き抜けて、その生に至っているように思えた。 Continue Reading →

わたしの2010年代

本棚とルイ・ブライユの胸像写真

 

2019年の年末。今年は2010年代を総括した一年であるといえるだろう。

2010年に提出した博士論文が受理され、博士号を取得した。あれから9年が経過したが、2010年代は取得以降の方針を定め、理論と方法を準備する期間であったといえるだろう。最近のアカデミーではよくいわれることであるが、取得することのみならず、「取得したあとの姿勢」も問われている。ちょうど、この2010年の3月は東京大学において博士号が取り消されるという残念な出来事があった。
これは、博士号の取得において、内容のみならず、取得以降の見通しもふくめた評価も必要とするものだったのではないか。それは追い込まれても展開できるしなやかさを備えた問題意識、倫理観、くわえて謙虚な研究姿勢といったこともふくめて提出された博士論文を評価しなければならない時代を告げるものであったように思われる。 Continue Reading →

平成の思い出 ー 恋と嘲笑

今日で元号としての平成が終わる。
わたしにとって、ひとつの元号を生きるというのは初めてのことだ。

けれども、昭和が終わったときのあのどんよりした雰囲気を子供心に刻んでいる経験があるためか、あまり歓喜しているような気持ちではない。何より災害の多い時代だった。平成において思い出は山のようにあって、思い出そうとすれば、箱から無数の思い出たちが飛び出して溢れかえってしまうようで収拾がつかないというのが正直なところだ。

そんな中、ひとつだけ思い出を記すなら「恋と嘲笑」である。

話は高校3年生の時に遡る。進学を控えていてクラスは緊張感のある日々だったのだけれども、クラスにはひとり、好きな子がいた。ロングヘアの活発な子で笑うと唇のかたちがスマートで綺麗だった。その唇が好きだった。

同じクラスになるまでは存在を知らなかったので、おそらく春になってすぐに好きになったんだと思う。けれども話をする機会はまったくなく、そうこうしているうちに、秋学期が始まった。秋学期になると、もう受験モードで部活も引退しているので、みんな家に帰るのが早かった。 Continue Reading →

少し開いた戸の向こう側 — 志村信裕《Nostalgia, Amnesia》(2019)

国立新美術館で配布された、21st DOMANI・明日展の配置図・出品リストを見て、志村信裕の展示場所を確かめると、こう書いてあった。

Nostalgia, Amnesia
2019
シングルチャンネル・ビデオ、サウンド、約40分

「約」という数字がもつ意味は、この作品が公開にあたりギリギリまで作られていたことを示しているのかなと思った。出品リストにおける映像の表示で「約」というのは見たことはなかったからだ。

以前、わたしは志村の《見島牛》を森美術館で見たときのことも書いた。あれから数年が過ぎた。そんなことを考えながら、展示を見て歩く。

ところで、あなたは夏目漱石の短編『永日小品』を読んだことがあるだろうか。これは漱石の思い出や日常が連作になっていて、漱石独特の質量の軽重のコントラストがよく表現されている。このなかの「行列」という章がすばらしい。これは漱石のいる書斎の戸が開いていて、そこから光や子供達が歩いていくのが見えるという、漱石の日常を切り取ったシーンだ。冒頭だけ読んでみよう。

広い廊下が二尺ばかり見える。廊下の尽きる所は唐めいた手摺に遮ぎられて、上には硝子戸が立て切ってある。青い空から、まともに落ちて来る日が、軒端を斜に、硝子を通して、縁側の手前だけを明るく色づけて、書斎の戸口までぱっと暖かに射した。しばらく日の照る所を見つめていると、眼の底に陽炎が湧いたように、春の思いが饒(ゆたか)になる。

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ブルー・カーペットと六畳間

新年、あけましておめでとうございます。今年もライブラリー・ラビリンスをよろしくお願いします。
 
年末年始、ちょっとしたことでかつて住んでいた家に行く機会があった。いまは空家になっている。ブルーのカーペットが印象的なリビング。奥の部屋は6畳で、わたしの部屋だった。
 
 
障子を閉めると、しっとりとした光がはいってくる。
そう、わたしは高校までをここで過ごしたのだった。
6畳の部屋に座り込んで寝転ぶと、しっくりくるところから、わたしの空間感覚はいまも6畳が基本になっているようだ。寝転ぶと、思い出が蘇ってくる。場と記憶の相関ということが古代ギリシャの記憶術でいわれていることをあらためて思い起こす。ここで思いっきり遊んだし、たくさんの宿題をやった。
 
ブルー・カーペット。これを海に見立てて泳いでみたり・・・。
 
思い出しかけたときに我にかえり、すぐに起き上がる。みずからの時間を懐古するのはまだ早いことに気づいたのだった。

紙をかき分ける — 村上友晴展「ひかり、降りそそぐ」

村上友晴展「ひかり、降りそそぐ」を見る。

これは絵画というよりは、一人の織りかさなる祈りのように思えた。

村上の祈りのあいだを歩きながら、わたしは点字のことを思い出していた。点字は、裏側から書く言語である。点字板に紙を挟み、針に似た形状の点筆を使って裏側から紙を向こう側に突き出しているからだ。紙を圧延するものである。紙の表面を凸のパターンにすることで、文字を触覚で読めるようにしている。その意味で点字は厚めの紙を必要としている。 Continue Reading →

風景の分解不可能性 — 「Hyper Landscape 超えてゆく風景展」

「Hyper Landscape 超えてゆく風景展」にて

 

ワタリウム美術館にて「Hyper Landscape 超えてゆく風景展」をみた。

この展覧会は梅ラボとTAKU OBATAの二人展となっているが、4階にあるTAKU OBATAの映像作品がおもしろい。ストライプに彫られた木のキューブが落ちていく瞬間をハイスピードで撮影している映像。落ちるキューブを撮影するアングルを変えて組み合わせているため、「横に落ちる」「上に落ちる」「奥に落ちる」といった加速度の表現が同時発生的に可能になっている。そうであるなら、電車が並行している状況や何かが飛んでいる状況とみなすこともできるし、台風で倒れそうなほどに揺れる木の枝のことも想起されよう。そうするともはや木のキューブは木ではなくなってしまう。今でも変わらないが、わたしたちは木に霊魂があることを強く信じている。それは別の意味では、擬人法ならぬ、木の擬物法であって木に加速度を加えることによって、物質性を託すことができる。

梅沢和木の「windows0」という立体作品はパソコンのディスプレイをもとにしている。これは前にも展示されたのを見たことがあったけど、ここで見るとワタリウムの展示空間そのものを凝縮した作品に見えるところがおもしろい。それとヒエロニムス・ボスの絵画のようなキリスト教の世界に基づきながらも得体の知れないものたちがいるが、あのようなわたしたちの感覚では感知できない存在への慈しみを梅ラボの作品から感じる。この作品は撮影禁止だったけど、作家本人が紹介しているものはこちら。これを作った当時、梅ラボは高校一年とのことでパソコンを買ってゲームなどいろいろとやっていたそうだ。 Continue Reading →

背中の思い出 あるいは、思い出の背中 — 村瀬恭子

村瀬恭子《In The Morning》
(1998、村瀬恭子展にて(ギャラリーαM))

 

ときおり射抜かれるような展覧会に出会うことがある。それはしばしば展示室に入った瞬間に決定される。ギャラリーαMにて「絵と、  vol.3 村瀬恭子」はそんな時間だった。

村瀬はグラファイト、色鉛筆、油彩をミックスしながら描いている。それらはざらっとした感触のコットン・キャンバスもしくは紙のうえで表現しているが、薄く伸ばしていて、じわじわとお互い侵食しているような描き方は琳派の人たちを思わせるところがある。
また、これらのメディウムの使い分けによって、奥行きや描かれていないはずの色が描かれている。わたしたちが子供の頃から持っている様々な空想の物語のイメージを仮託する容器たりえている。

何よりも語らなければならないのはこの絵だろう。

《In The Morning》(1998)だ。 Continue Reading →

筒井茅乃とヘレン・ケラー

今日は8月9日。
アメリカのボストンにあるパーキンス盲学校のアーカイヴスにはヘレン・ケラー宛への手紙が多数デジタル化されているのですが、その中にこんな手紙がある。
まさに、今日読むべきものだ。

————–
ヘレン、ケラー先生 Continue Reading →

長谷川利行と東京市養育院

長谷川は人生の最後で倒れ、行病人として東京市養育院に入院した。
胃がんだったという。養育院から矢野文夫に手紙を出し、矢野はすぐに駆けつける。
以下、矢野がまとめた『長谷川利行全文集』の書翰の部分に収録されている回想。

偶発の組成 — 地主麻衣子「欲望の音」

Art Center Ongoing「53丁目のシルバーファクトリー」にて

HAGIWARA PROJECTSにて「欲望の音」スクリーニングを見る。上映が終わった時に思ったのは、ようやく地主麻衣子の作品に浸かったような気がする、言い換えると地主の作品がようやく身体に沈殿していくことが感じられるということだった。わたしが地主の作品を初めて見たのは黄金町バザール2014だと記憶している。

さて、「欲望の音」とはなんだろうか。作家本人が一部をVimeoにアップロードしているものはこちら。 Continue Reading →

思い出の触覚 − 椋本真理子「in the park」

国分寺のswitchpointへ。

椋本真理子の作品には、ニュートラル、非場所性、人工、といった言葉を思い浮かべるだろう。わたしもその一人だけれど、わたしが考えるのは水である。まず、水は椋本の彫刻において登場する回数が多い。また、椋本の作品の中で《private pool》という作品に一番感銘を受けているからというのもあろう。プールの表面を象ったような作品でいて、彫刻としてのプールサイドは存在しておらず、水そのものが現前している。

なぜ、水なのか。ロレンス『黙示録論』では、古代人の意識として、触れるものはテオスであるとしている。引用しよう。

「今日の吾々には、あの古代ギリシャ人たちが神、すなわちテオスという言葉によって何を意味していたか、ほとんど測り知ることは出来ない。万物ことごとくがテオスであった。(・・・)ある瞬間、なにかがこころを打ってきたとする、そうすればそれが何でも神となるのだ。もしそれが湖沼の水であるとき、その湛々たる湖沼が深くこころを打ってこよう、そうしたらそれが神となるのだ。」 Continue Reading →

蟹を埋める

2018年3月16日。夜に買ったアサリを砂出しをするべく、塩水に浸す。

2018年3月17日。朝、アサリの砂が出ていることを確認し、洗ってパックにつめると網の中に丸いものが引っかかっていた。

白く、半透明の蟹だった。

わたしはそれを手に取るとモゴモゴと弱々しく動いた。とりあえず生魚の切れ端を与えたけれども食べようとしない。 Continue Reading →

木を見るときに

“You cannot judge a tree by seeing it from one side only – As you go round or away from it – it may overcome you with its mass of glowing scarlet or yellow light. You need to stand where the greatest no of leaves will transmit or reflect to you most favorably…”

10月になって決まって思い出すフレーズに、ヘンリー・ダヴィッド・ソローの日記にかいてある一文がある。これは1860年10月9日の日記に書いてあって、ソローの日記をアーカイヴとして公開しているウェブサイトで知った(カリフォルニア大学サンタバーバラ校の図書館が公開している)。

ソローはフェア・ヘヴン湖をボートで漕いでいるときにこの風景に出会ったらしい。ソローは木をone side、ひとつの方向から見ただけで決めてはいけないと言っていて、木というのは周りを歩き回ったり、距離をとることでその見方を変えてみるということ。その後に続く”You need to stand where the greatest…”のところが重要で、自分の視点に立ってみるということ。そのとき、もしかしたら眩しいスカーレット、あるいはイエローの光を見つけるかもしれない。これは研究において、史料を読むときに心においておくべき言葉だ。

画像としてアップしているのは、ソローの日記(1860年10月9日)の部分。これを見ると、右頁の上から6行目の”stand where the greatest no of leaves”のパートでtが4つ並ぶのだけど、それを走るように横線を引いているところはソローの気分がのっているようでメロディックだ。

いい言葉でしょう?

瑞々しさの基準

宮城県・多賀城市にて。

何かに対する判断基準として、それが瑞々しいかどうか、というのがある。

ある機関で史料調査したときにひょっこりと紛れていた資料と出会った。それは鳥山博志『死の島ラブアンからの生還』だった。とても薄い私家本で、元は潮書房「丸」別冊3号(太平洋戦争証言シリーズ、1986年)を製本したものらしい。この冊子の最後に、鳥山さんはこんなことをした、と年賀状の内容を紹介している。書かれたのはおそらく1980年代であろう。

紹介してみたい。

 

「(前略)昨今、戦争の本質をあいまいにする危険な風潮を感じはじめたからです。国の動きの中にも・・・

憲法第九条は、先の大戦で戦没した二百十万人の日本人が私たちに残した遺書です。私は生ける証言者として、この遺書を守り、故郷を遠く離れて、護国という名目のためにジャングルの土となった人びとの言いたかった訴えたかったことを、その本当の心を代わって語り伝えていきたいと思います。戦没者の鎮魂は、靖国にあるのではなく、戦争の実態を明らかにすることの中にあります。反戦反核の決意を新年のご挨拶といたします。鳥山博志」

 

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もぎとった果実のように、声を手渡す — 石牟礼道子

石牟礼道子『苦海浄土』『神々の村』『天の魚』を読了する。言わずと知れた、水俣を描いた三部作。

樹木から果実を取ったように、石牟礼が取る声が生(キ)のまま。それは文字という濾過を介していない。紙の上に、声じたいとして留まっている。人の声を一度すら聞いたことがないわたしにとって、その声は石牟礼が書き取るというよりは、石牟礼の手から絡め取られた声を手渡しされたように思える。

声の手渡し!

それが可能なのは、ひとつは方言なのだろう。その土地にまみれた口から出てくる言葉がある。標準語という極めて政治的な言語体系を逆行してやってくるからだ。 Continue Reading →

かろやかな人

危口さん。久しぶり。
 
昨日、京都の家に帰宅したあとに危口さんが亡くなったことを知った。今日がお通夜で明日はお葬式とのことで荼毘にふされ、新たな世界に行かれるまえに書いておきたい。
 
わたしは危口さんと3年前に知り合い、ときおりお会いしては立ち話をする関係だっ た。危口さんの本名は木口で、わたしと同じく姓に「木」がついていることもあって、木の話題もときおりあった。とくにわたしが家の立ち退きをうけたとき、 小さな庭にあった梅の木が切られることの納得できなさを最初に相談したのは危口さんだった。あのときは移植先への道を示してくれたことに感謝しているけれど、迷惑もかけてしまった。ごめんなさい。
 
悪魔のしるし『わが父、ジャコメッティ』では危口さんがお父さんの横に立って、お父さんのプロフィールが書かれたボードを掲げて二人で頭を下げるシーンがある。そのとき 客席では笑っているひとがたくさんいたが、わたしはすこしも笑えなかった。なぜなら、葬儀のシーンにみえたからだった。
 
一般的に、葬儀の場では喪主が故人のことを紹介する時間が設けられている。『わが父、ジャコメッティ』では喪服を着ていないし、当の本人が横に立っている のだから葬儀のようには一見みえないけれど、危口さんに「お父さんのプロフィールを書いたボードを掲げるシーン、危口さんが喪主として父の葬儀をやっているよね。客席は笑っていたけど、わ たしはまったく笑えなかったよ。」と話すと、危口さんはニヤリと笑って「ご明察」と答えた。それなのに、明日はお父さんが危口さんの喪主を務めることになっている。
 
危口さん、そりゃあ無いよ。『わが父、ジャコメッティ』と逆じゃない?

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2016年

夢殿観音(明治時代・小川一眞撮影)

年末年始、帰省までの切符を受け取った瞬間、2016年の瀬を感じることになった。いつもは飛行機で帰省するのだけれど、今回は新幹線を利用した。深い意味はなく、たんに新幹線から流れる風景を見ながら作業をしたかったのだった。たいへんよく捗ったのでまた新幹線を利用してみたい。

さて。今年について。2016年は良い一年だった。全国に散逸している盲唖学校の史料を調査してきたが、ようやくボリュームとしてもクオリティーとしても一定のものを得ることができた。これまで、京都や東京しかみてこなかったので全国にどのように展開してきたのか、おぼろげながらつかめてきたのがこの年だといってよいだろう。 Continue Reading →

トランス/リアル - 非実体的美術の可能性 vol.5 伊東篤宏・角田俊也

誰かを抱いた時。

子供のころ、父や母に抱きついた時。愛おしい人に抱きついた時。

胸や背中が膨張を繰り返して呼吸しているのを覚えている。

角田さんの作品はそんな記憶を喚起させるものだった。スタッフに促されて手で木箱にそっと触れたり、スピーカーに触れるほど耳を近づけると振動があった。 Continue Reading →

岡山芸術交流 会場情報・アクセスについて

岡本太郎「躍進」(岡山駅にて)

岡山芸術交流においては、各会場の作品の配置を示したパンフレットが配布されていますが、一部展示の変更があったために修正したものも同時に配布されていました。この修正版はA3両面で、「更新版 会場情報・アクセス」というものです。
もちろん、公式サイトでも修正されているのですが、google mapを使っているためにやや重いです。そこで、この修正版を持って歩くととても周りやすくなるのでスキャンしたものをこちらにて紹介します。

okayama_art_summit2016_map.pdf

よい旅を!

瞼の非同期とインサーション

画像はαMギャラリーウェブサイトより

αMギャラリーでトランス/リアル - 非実体的美術の可能性 vol.4 相川勝・小沢裕子を見る。

ギャラリーに入ると点滅する部屋。休廊中?と最初は思った。それは違っていて、ギャラリーを出るときにスタッフから教えていただいたのだが、眼鏡に目の瞬きを感知する装置を入れていて、それと同期するように部屋全体が点滅するようになっていた。スタッフの男性に「集中できないんじゃないですか」と尋ねると「そんなことないですよ、同期しているのです」というような返事があった。確かに彼が目を閉じれば部屋は真っ暗になり、目を開けばまた明るくなる。蛍光灯だからその点滅の速度はきわめて早い。パッと点灯と消灯を繰り返す。

なんということだろう、と思った。 Continue Reading →

京都府立総合資料館と京都盲唖院

京都府立総合資料館の投書箱。
ときどきおもしろい投書がある。
一番笑えたのは「熊のプーさんは爬虫類ですか?」という質問。
答えは「質問の意味がわかりません」というものだった。

京都府立総合資料館。京都府民で知っているひとはどのくらいいるだろうか。京都の資料を取り扱う機関。わかりやすくいえば公文書館でありつつも貸出をしない図書館機能もあり、展示をする博物館機能もある、といえばいいだろうか。その京都府立総合資料館の新館がリニューアル・オープンするため、いまの建物が閉館になる。だからというわけではないのだけれども、2年前あたりからちょくちょく足を運ぶようにしていた。 Continue Reading →

歪んだ柱

広島。長崎。わたしは今年、原爆が落ちた街を訪れた。

いろいろと思うことはあるが、長崎の興福寺というお寺を訪れた時の話をしたい。ここは、実は長崎盲唖院の唯一の遺構が残されているお寺だ。桜馬場に新し い校舎が建てられる前、長崎聖堂で授業をしていた。その遺構がこのお寺にあるのだ。それをひととおり見学させていただいた。その後、美味しいお茶をいただ きながらお住職にお寺の歴史についてお話を伺っていた。お寺の雰囲気からわかるように、黄檗宗の寺院である(長崎と中国・西洋と盲唖教育というテーマもひ じょうに興味深いのだが)。

そのなかで、お住職はあれを見てごらん、と本堂の回廊を指さされた。そこには柱が建っている。

「柱が曲がっているのがわかりますか?」

「ええ、わかります。」

「あれは、原爆で倒れたんですよ」

えっ、と思った。というのはこの興福寺は長崎の市街地の南の方にあり、やや離れているのであったから。原爆による爆風が山を越え、市街地を走り抜けるとともに、建築をなぎ倒していった。

その瞬間、わたしの目にはある柱は、柱でなくなった。これは、まぎれもなく、原爆の永遠の、証言者なのだ。

倒されて曲がってしまった証言者は再び体を起こして、かつての場所から動くことなく建っている。これこそが重要であった。

瞽女の声

momatの吉増剛造展に。吉増が収集してきたカセットテープの束を見ていたら、瞽女に関するものが7本もあった。杉本キクエの名前が見える。杉本に関しては音源が出ているけれども、これらのテープはどうであろうか?

声、声、声を収集する吉増剛造。

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盲人と自分を見つめる

momatの常設展に中村彝が描いたエロシェンコの肖像画がある。常設ではスタメン、登場する確率が高い絵画である(右)。その横が中村本人による自画像(左)。エロシェンコは沈思するような表情で佇んでいて、視線はこちらに向いていない(それこそが、盲人を描いた肖像画としての確固たる地位を占めているのだが)。一方、中村は口をやや意識的に結び、彼の目はこちらを向いている。顔の向きは反対で、二人はお互いにそっぽを向いているかのように配置されている。 Continue Reading →

光の集合と終わり — 志村信裕《見島牛》

六本木クロッシング2016を訪問する。オープニングに伺って以来、しばらく見る余裕がなかったが、終了間際になって訪れる。

やや長いエレベーターをあがりながら考える。わたしは、どんなふうにして、美術と向かい合っているのだろう、と。 Continue Reading →

刻まれる写真 — 東松照明の長崎

ちょうど、わたしは長崎で史料調査をしていた。わたしは全国の盲人・聾者の社会とコミュニティを盲唖学校を通じて研究しているが、それを長崎に求めにきたのであった。
時代としては明治・大正であって、原爆が落ちる前の長崎の姿をみようとしている。
そこから延々と広島で資料調査を行ったのち、時間のあいまをぬって広島市現代美術館の東松照明展に向かう。
広島平和記念資料館からのバス「めいぷるーぷ」に乗ると、丹下の建築のまえで子供たちがピースをしている。深刻そうな表情をしている子はおらず、楽しげに走り回っている。このような風景がずっと続くべきだ。

バスに揺られながら考える。広島で長崎の写真が展示されることについて、原爆という二文字は欠かせないことになっていることは本来ならあってはいけないことなのだが、それ以上にわたしは東松の死後、という時間を考える。写真家の死は、現在を生きている被写体にとっては二度と東松のファインダーにとらえられる瞬間はおとずれないことを意味している。そして、被写体やわたしにとっては新たな時間が流れることでもあった。だが同時にこうとも思う。「原爆が落ちなかったら東松は長崎でシャッターと切らなかったのではないか?」 Continue Reading →

道後温泉にて

長崎、宇和島、松山と調査が続いていたので、息抜きをしたく、道後温泉本館に。松山では有名な観光地でまあベタなところだが一度見ておきたかった。

せっかくなので霊の湯 二階席をとって入浴する。今回の史料調査にあたって楽なことは一度もなかった。それにかつての盲人や聾者が置かれていた社会状況。それを考えると耳が聞こえない身体をもって生まれてくるべきではなかったかもしれない。生まれ変われるなら、耳の聞こえる人として人生を送ってみたい。聞こえないということが、わたしの身体に重くのしかかっている。 Continue Reading →

ニカッと笑う小西信八

小西信八が笑っている写真は珍しい。盲唖学校での集合写真ではこのような表情は見せない。嬉しいことがあったのだろう。

犀星の初版本グラフ

資料を整理していた時に出てきたもの。金沢にある室生犀星記念館でもらったのだと思う。本の装丁と出版年をグラフにしたもの。これは記念館にも同様の展示がされ、壁一面に初版本が配置されている。参考写真はこちら。

面白いのは上に行くほど時代が新しく、下に行くほど時代が古いという「地層型年表」になっていることである。

断章 ー 出窓の先に

新居に越してもうすぐ一年になろうとしている。出窓からの風景を見ながらコーヒーを飲んだり、朝食をとるのが楽しいのがこの季節かもしれない。夏になると日差しが強いだろうから。写真は12月のものだが。

最近読んだもの。大阪の盲人が書いた文章で、子どものときに親に連れられて当時大阪盲唖院の院長だった古河太四郎を訪問したという短い回想を読んだ。それによれば、「ぼん、これが何かわかるか」とあるものに触れられたという。それは瓢箪で「瓢箪です」と答えると、おお、よくわかるな、と返されたことを覚えている、というもの。
古河のユーモラスな側面があった。そう思えるのは、わたしと古河が短い付き合いではなくなったということでもあるのだろう。

はじめて古河のことを知ったのは、わたしが講師をしていた手話サークルで教養講座をすることになり、手話の歴史を知りたいという声があがったことがきっかけ。ひとまず、障害児教育史の参考文献を調べ、古河のことを知った。あの時の感覚は、単に京都の一小学校の教師だった、手勢という方法で物と概念を教えようとした、という印象しかない。その継ぎ合わせの知識で手話サークルで説明をしたことを覚えているが、こんなの知識じゃない、絶対に。血にも肉にもならない。知識の本質は、その人が何をしたか、ではなくてその人が何を目指したかを見せてくれるものだから。それを見つけるには、古河の家族構成や学歴、職歴からみた生の体系に近づかなければならない。そうすることで知識は知識として、はじめて言葉としてこの体から語らせてくれる。わたし自身が語るのではなくて、わたしの体が語ってくれる。

古河の言葉がしてくる。

「ぼん、これが何かわかるか」

部屋と欅

用事があり、旧居に行かなければならなかった。

わたしがかつて住んでいた居室の様子をみると、窓のある部屋に切り倒された欅が横たえてあった。毎年、元気に枝を伸ばしては、わたしを悩ませていた欅であったが、こうして君は部屋にいる。

君は亡骸としてあり、どこかに連れ去られるのを待っている。

初めて君の大きさを知る。かつて自分がいた部屋でもあり、スケール感が身にしみているからこそであった。君はひとつの部屋を覆う存在であったか。

手の重さ、部分の記憶体 — サイ・トゥオンブリ

1週間近く、雨や曇りが続いていたけれども、金曜日になって夏の日射しが感じられるようになった。サイ・トゥオンブリー展(原美術館)をみる。原美術館へはいつも品川駅の高輪口から歩いていくのですが、駅前から美術館への道で喧噪する空間が日射しとともにほどけていくさまが感じられる。
原美術館は障害者手帳を出すと半額になるので、550円支払って中に。いつもここは変わらない。常設もいつものまま。宮島さんの赤く表示される数字たちも相変わらず時を刻んでいる。わたしはトゥオンブリーについてまとまった作品をみたことがないので態度を留保していた。

絵をみていくと、絵には始まりもなければ終わりもないということを教えてくれるように思えた。グレーのペンキにチョークのような線がリズミカルに動いている絵をみれば、始まりの線、終わりの線は常に画面の外にあって、紙のうえにあるのはその中途であった。絵画を目の前にしたときに広がる世界はそこで完結しているのではなくて、絵の外にある世界のことに目を向けさせてくれる。手の動きが感じられる、という感想はたぶん多いかもしれない。自分でまねて見るとわかるが、トゥオンブリーのように大きく手を動かすと手の動きというよりは、手の重力や手の存在そのものが身体に実感されてくる。骨と筋肉、神経によって支えられているわたしたちの手があるということだ。この絵画に視線を戻してみるとそういうものが一切省かれていて「手の動き」「運動」というものだけが残っている。

Bolsenaというイタリアのボルセーナで描かれた2枚の絵の前にたつ。この2枚は四角形の枠に数字がランダムに並んでいて、下に沈殿していくかのような構図になっている。この絵の前にたつと、部分と部分それ自体は意味をなさないということ。それらが視線や意識によって結び合わせられることによって、化学反応のようにイメージがでてくる。すなわち、脳裏にある記憶そのものが現出しているように思われたのだった。

窓の脇で

先生。まだ先生の背中は遠いよ。

手形付き・足形付き土製品(大石平遺跡 青森県立郷土館蔵)

惹かれるなあ。

手形付き・足形付き土製品 大石平遺跡 青森県立郷土館蔵
粘土に子供の手や足を押しつけて焼き上げています。中央の手形は2歳前後、左右は1歳ころの子供ものです。子供の成長を願ったお守りとする説などがあります。

source:特別展「北海道・北東北の縄文」展示解説-第4回

最後の手段《おにわ》

(画像は有坂亜由夢さんのタンブラーより

イメージの祖父。
祖父のイメージ。

老いた男性が棺桶らしいものに包まれる。これは宇宙人『じじい -おわりのはじまり-』の映像でつかわれたものだと思う。連さんがそのときに一瞬顔をのぞかせる。《おにわ》はこのようなところから始まる。死を考えざるをえない。
祖父は自分の棺桶 — 箱のなかで庭をつくる。
わたしの祖父も自分の庭をもっていた。
女性(おいたま)が祖父と出会う。

わたしは去年の11月、祖父を亡くした。そのときは台湾に滞在する準備で慌ただしいときで東海道線で母に「台湾にいるとき、祖父にもしものことがあったらどうしようかな」と冗談めかしたことをLINEで送ったら、しばらくして東京駅かそのあたりで母からLINEで返信がある。

「いま、おじいさんがなくなったよ」

とあった。振り返って車窓から外を見上げたら、雲一つない空が広がっていた。ああ、おじいさん・・・台湾にいるから気をつかってくれたのかなと思いながら、芸大まで吉田晋之介さん《午前3時3分の底 -ひも億-》を見に行った。おかげで彼の絵と祖父の命日はつながっている。

祖父の火葬のとき、祖父の頭蓋骨が焼け崩れることなく、そのままごろんと転がっていた。

「おにわ」の「まつげ男」(とわたしは呼んでいる)の口元はけっこうな美少年を思わせる。稲妻のような絵が壁に描かれたコンビニエンストア。超巨大な木造建築物をかけあがっていくまつげ男。ふわふわした犬。滝のようにあふれるコーヒー。箱につつまれていく女。祖父が手 にする湯のみのおにわ。引き抜かれる富士山。さわると砕け散るスマートフォン。女性は箱に包まれて鍾乳洞をおりていく。口紅をつけるおいたま(セクシー・・・)。古代において鏡の力は、そのものが映ることだったとされる。キラーンとした窓。積木の彩り。あいかわらず何かが常に飛んでいるのも最後の手段らしい。

「おにわ」については、製作中のレポートで有坂さんが語っているところがある。

・・・『おにわ』は影なんです。光に対しての影、つまり裏面といいますか。民話や神話の要素に加えて実写映像も入れて、よりディープな作品にしたいと思っています。

祖父のおにわの空が一気に開かれると同時に、祖父の精神も弾けていて、希望に包まれている。わたしが亡くなるときもこうであってほしい、できることなら。

祖父は母に「ともたけは?」ときいたという。
それが最後の言葉だった。わたしは祖父の頭蓋骨をみながら、動かない口から紡がれる言葉を見ていた。

イメージの祖父。
祖父のイメージ。

盲人の視覚

雪ふかみ たはめど折れぬ 呉竹の 色やゆるがぬ 御代とこそしれ

この歌は、小杉あさという近代の静岡において東海訓盲院において活躍した盲人の女性が明治34年に歌ったもの。足立洋一郎さんが去年、静岡の盲教育史を扱った『愛盲』を出版されたのですが、このなかで小杉が扱われている。広瀬浩二郎さんの語りと交差するところかもしれない。去年の年末に広瀬浩二郎さんと伊藤亜紗さんと対談したものが伊藤さんのウェブサイトにアップされている。

前編:http://asaito.com/research/2015/01/post_21.php
後編:http://asaito.com/research/2015/02/post_22.php

後編で広瀬さんがかつて目がみえていたときに色について述懐するところがある。また個人的に広瀬さんが全盲になったあと、彼の文章のなかに人の身振りについて書いているところが不思議だったので尋ねたのだけれども、盲人が「色」「身振り」について語るところが興味深い。小杉の歌をみると、呉竹の色や・・・とまるで竹に雪が積もっている情景が見えているかのよう。塙保己一の視覚について論じた論文もあるし、盲人の視覚というのも今後のテーマになるだろう。

後日談になるけれども、わたしがギョッとして何も言えなかったところがあって。

広瀬 こちらこそ、楽しかったです。これだけ盲とろうの人がじっくり話しているのは貴重だと思いますよ。

広瀬さんはわたしの横にいるのに盲人と聾者はお互いの姿を認識できないくらい、あまりにも離れてしまっている。近代から今日までの時間の重みがずしりとのしかかってきたのであった。

台湾歴史博物館の常設展示

台湾歴史博物館の常設展示。特徴的なのは、ジオラマが多いことであろうか。説明というよりも体験的な内容。そのジオラマにおいて観覧者とのあいだに仕切りや高さのコントロールを最小限におさえていて、空間として一体性が強いように思われる。鹿港のジオラマや植民地時代の日本人のイメージ、原住民に銃をかまえる日本軍。台湾人の出征など。

 

島嶼‧地動‧重生:921地震十五周年特展

去年12月、台湾歴史博物館で1999年9月21日の震災をテーマにした展覧会「島嶼‧地動‧重生:921地震十五周年特展」をみた。あの震災から15年が経過したことで、現在はどのようになったのか、当時の映像や救助状況、遺族の写真、建築の破壊状況を平衡感覚を狂わせるようなスライドとともに展示するという内容。被災された方々が現在どうしているのかというモノクロの写真群がもっとも記憶に刻まれる。

來自四方:近代臺灣移民的故事特展

去年12月、台南の国立台湾歴史博物館で移民をテーマにした「來自四方:近代臺灣移民的故事特展」という、近代から現代台湾における移民についてフォーカスをあてた展覧会の写真です。撮影自由でした。
渡航証や戸籍などプライベート性が高い史料が多く使われている。日本ではなかなか難しいテーマ。

冒頭の女の子の写真。史料をよむと、おさげの少女が廈門から台湾の新竹に向かおうとする史料。親に会うために。船で台湾に向かう少女と、ガラスに映り込んだカメラを構えるわたしの姿が交錯している。

2014年の展評

年の瀬となりました。2014年に見た展覧会のなかで、心に残ったものをいくつか選んでみます。

1、内藤廣 「アタマの現場」(ギャラリー間)
内藤さんの建築に関する回顧展。建築の展覧会では、模型をすっきりみせたり、動線に配慮した展示をみせるのに対し、内藤さんはスチールラックに所狭しと並べる。あるいは壁に直接はりつけるようにしている。これは、博物館における古代生物の展示ブースのようで、氏の仕事の蓄積とともに数百年後、氏の建築が紹介されるときの状況を思い起こさせるものであった。

2、八幡亜樹「パランプセスト―重ね書きされた記憶/記憶の重ね書き Vol.7」(gallery αM)
もっとも新鮮な衝撃を受けた個展だった。ギャラリーに入ると目の前にAdobeプレミアの古いヴァージョンで編集している画面で全体構図を示しつつ、そこから映像を飛ばす。まるで記憶を飛ばすように。鑑賞者は各部分の映像を繋ぎ合わせ、冒険しながらひとつの「記憶」を八幡さんと共有しているかのような身振りをとっている。

3、「日本国宝展」(東京国立博物館)
これまで国宝展は何度か開催されているが、今年は「愛国心」が話題になったためか、美術と政治について考えさせられた展覧会。
「国宝」「重要文化財」の認定基準として、年代やそのものがもつ背景が明らかであるという明瞭性がある。これらを辿ることでたしかに日本の歴史そのものを追認できるが、おのれの背後に存在する、いつのまにか刷り込まれた歴史観、幾多の過ぎ去ったものたちを回顧するものだった。 Continue Reading →