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20220202

2月2日。2が続くのは、この日と22日。世の中は新型コロナウイルス感染症が軸となって高速度で回転していて、何がどうなるのか見通しが立ちにくい。あちこちと連絡を取り合い、書類を作成することに集中する。新しいプロジェクトが4、5つほど同時進行しているので、見失わないようにするのがたいへん。
アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトの身体表象について博論を書き、学術書を刊行されているサラ・ポラックさんのトークをみた。著書によれば、ルーズベルトは肢体不自由があり、車椅子を使用していた。彼はラジオによる演説を好んだが、その背景にはラジオというメディアの特質として、自らの身体を見られることがないという点を指摘されている。その車椅子に乗る様子は写真に撮られないように細心の注意を払っていたが、没後に車椅子に乗っている写真が見出されてたあとは、その障害を克服するというメタファー、困難に立ち向かうヒーローとしてのルーズベルトといった演出がみられる。例として、彫刻や映画といった文化表現として。また、ルーズベルトは1928年から45年にわたる自らの演説や公文書を書籍にまとめ、自らの図書館を設立している。ルーズベルトは自らのイメージをコントロールしようとしていたという分析をされている。それを伺ってすぐに伊藤博文のことを思いだす。伊藤も自らの関係文書を大量に残しており、生前に自らの全集を編纂しているからだ。それに、昨今のSNSでのわたしたちのペルソナとしての振る舞いがそこかしこにある。そんなわけで、自らのパソコンの画面を眺めている時間が長くなると、窓から遠くの風景を眺めて、最近やりたい研究のことを考える。
夜は4時間ほどキッチンに立ち、料理に集中する。そのなかでも豚汁は体が温まるのでこの季節によくつくっている。作りたての豚汁はラードのような脂が熱を逃がすのをシャットアウトしているためか、体に流しこむと温まってくる、とてもおいしい。

20220201

2月1日。パスタにチーズをかけて食べながらニュースを見ていたら、熊本県産のアサリの97パーセントが外国産であるということが伝えられていた。中国産のアサリを熊本県の干潟にまいたものを熊本産として出荷していたという内容で、中国産と表記すると売れないことを顔のブラインドされた業者が話している。最後に、ある業者が産地偽装をしなくても成り立つ業界にしたいと決意表明をして終わる。こうしなければならない理由として、輸入食品については検疫所がモニタリングをするというのが一般的な理解であるにもかかわらず、安全性にたいする強い不安がひとつはあるだろうし、味の違いもあろう。でも、地名という言葉のイメージもあるのだと思う。バフチンの『小説の言葉』で、「諸言語の裡(うら)には、具体的な社会的・歴史的な衣装をまとった話者のイメージを見てとることができる」(平凡社ライブラリー、p.149)と書いているように、それが生まれ育った土地を示す地名はその社会・文化をもまとっていると考えてみれば、そのまとうものは一枚ではない。その地名が属する国家と、わたしが立っている土地が属する国家との物理的距離、政治・文化的交流、ひいては中国、熊本といった地名にたいする個人の思い出が幾重に覆い包まれている(それにしても「中国産」はあまりにも広すぎる。このアサリは中国のどこで生まれたのだろうか)。今を生きるわたしたちだけでなく、過去を生きたわたしたちがその地名において形成してきた事柄が、「中国産」のアサリに「熊本産」をまとわせてしまっている。あの広大な領土をもつ中国を、日本のひとつの地方公共団体である熊本が覆い包んでしまっている! チーズを手にとって残ったパスタにかける。テーブルに置こうとしたとき、チーズの容器の背中をひっくり返してラベルを確かめる。そこにはニュージーランドと書いてあった。

20220131

1月31日。月曜日は平日というよりも、「ザ・平日」のようだ。起床してコーヒーにトースト。その合間に冷凍庫からご飯を取り出してレンジの「解凍」「温め」がセットになっているようなモードであつあつにしたのを元に弁当をつくる。それが済んだら身だしなみを整えて外へかけだす。これが基本的なことなのだが、今朝はマフラーが見当たらない。まあいいやとピーコートの襟を立ててまだ寒い道を歩いていったのだけれど、電車の中で読書するためにリュックを開けるとそれが入っていた。こんなところにいたのか。それを首に巻きなおした瞬間、冬の日常が羽音を立ててやってきた気がする。
授業でジョン・ヴァーリイ『残像』について検討することもあり、再読をする。ケラーなるコミューンを訪問する男の話だが、このケラーというのはヘレン・ケラーから来ているのだろう。1978年に書かれたのだからヘレンの没後になるわけだが、これを読むと濃厚にヘレンの香りがしてくるのだ。たとえば『残像』では線路の両脇にある柵に手をあてながら機関車を動かしているシーンがある。一方で、ヘレンは柵を手がかりに毎朝の散歩をする映像と照応できる。こうした、ヘレンの事業がこの小説の随所に散りばめられているように思う。

20220130

1月30日。起床してゆっくり洗濯機を動かす。水が注がれはじめるところに溜まりに溜まってしまった服を投げこんでいく。その間に、コーヒーを淹れ、昨日のツナサンドの具が残っていたのでそれを朝食にする。将棋の王将戦の2日目を見ていたいのを我慢し、ここのところできていなかった読書をする。借りていた本や課題図書が山になってしまったので崩すべくまとめ読みをしていく。ツイッターを見ていると読みたい本がいろいろ出てくるのですぐ買わないようにしなければならない。頃合いをみて、洗濯物を干して、昼はアサリのチャーハンを挟む。また、このサイトの文字が小さいので大きくするべくcssを調整したが、こうした作業に慣れておらず、悪戦苦闘する。各ポストのフォントサイズを大きくできたが、トップページのは一部しか変更できなかった。このポストは大きく見えるはずだ。

20220129

1月29日。土曜日の朝はいつも楽しみがある。今朝は普段のように目覚めたのち、新聞を読んでいたらツナサンドを食べたくなったので、バターで炒めたパン粉のツナサンドを作る。ついでに卵サンド。ネットニュースを見たら、将棋の王将戦3局が始まっている、ゆっくりとした出だし。この出だしのようにわたしも外出し、佐々木健「合流点」を見に行く。元はと言えば、田中功起さんのツイートが知ったきっかけで、相模原での殺人事件を対象にしていることもあって見に行きたいと思っていた。だけどその年末年始は仕事が多くて会期間際になってようやく行けたという体たらくである。そのあいだに『美術手帖』で佐々木さんが飯山由貴さんと対談しているのがおもしろかったし、少し前に梅ラボさんが黒嵜想さんと一緒に出かけたとツイートをしているのを見ており、行かなければならないなと思っていた。というか、黒嵜さん、横浜に来てくれたんなら一言声をかけてくれ!
京急線で金沢八景駅まで。横浜市立大学の最寄駅で、そこの図書館は横浜市民が利用できるようになっているが、この新型コロナウイルス感染症の状況からして利用できないだろう。また、大学のすぐ南側に1軒、蔵のあるよい門構えの家が電車からみえる。なんだろうか。その駅で降りてすぐに京急バス、鎌24番に乗る。この路線は初めてなので、グーグルマップを見ながら景色を眺めていた。途中にブックオフがあるようだ。このあたりでバラの花が全身にプリントされたコートという奇抜ないでたちの男性が乗ってこられた。一目見たら忘れられない柄。この路線に乗るたびにそのことを思い出すかもしれない。鎌倉霊園のあたりで坂を上下し、十二所神社を通り過ぎると会場「五味家」である。どういうご縁かなと思ったが、佐々木さんの祖父母が住まわれていた家で、いまは佐々木家で管理しているとのこと。玄関のドアが開いていて、それなりに靴が並んでいた。繁盛しているようだった。6畳もないぐらいの小さな応接間に通されると、ホームビデオの上映にどこかからの土産品、文庫が並んでいて、天井に近いところには佐々木さんのお兄さんが書いたものを佐々木さんが「模写」した絵画作品。さあっと見渡していると、高齢の女性(あとでわかったが佐々木さんのお母様とのこと)がお茶とお菓子を運んで来られたので、展覧会に来たというよりは誰かの家に遊びに行ったようだ。くつろぎながら映像を見ていた、女性がスピーチの練習をしていて、途中でお兄さんが我関せずとしているという対比。
お母様が作成された佐々木さんのお兄さんのプロフィールを冊子にしたものをみる。随所に愛情がにじみ出ている。そのにじみ出ているものは、知識の引き出しのひとつを開かせた。それは坂本義夫が書いた、岡山孤児院の本で明治40年に出版されたものだ。この中に、ある地からたった一人で周りの助けを借りながら岡山孤児院にやってきた子供の物語がある。その子の首には「履歴袋」というものが下げられていて、子供の名前、両親のこと、家庭のことが記されている。それによれば、父がダイナマイト事故で失明してしまい、母は子供を捨てて逃げてしまったこと、父もまた事故で亡くなり、子供だけが残されたことが書いてあった。この子の運命をわたしは知らない。

佐々木さんのお兄さんのことがまとめられたその冊子が、施設や周りの人との交流において機能しうる意味において、またプロフィールという語の本来の意味である、その人の輪郭、その人を語るという構造において、明治の一人の孤児の物語の変形質のように思ったのだった。遠い未来のいつかの日、佐々木さんのご両親がこの世からいなくなり、お兄さんと佐々木さんの二人だけがいる世界において、その冊子がますます光をもってくるさまをわたしは想像していた。たまたま隣にいた人が知人であったことに気づき、しばらく話をしていたのも何か人の家に遊びに行ったという感覚を強くしていた。
応接間を出て居間に出る、6畳と8畳をつないだ部屋で床の間や縁側も含めたら20畳はあろうか。お兄さんの肖像画、相模原での殺人事件の現場のすぐ近くにある相模川の風景画や佐々木さんの文章などが展示されている。その文章は昨年の7月末に書かれたものだった。相模原での殺人事件から崇高の問題にアプローチされていて、3年前にテートブリテンに通って近世絵画を見ていた時間と重ねてながら見ていた。庭をうろうろして、戻ったところで男性に腕をたたかれて呼び止められる。その人が佐々木さんだった。立ち話からソファに座って展示の話や障害者教育の動向など長話をする。ソファの真向かいにある、観覧車やジェットコースターの描かれたこんもりした森の風景は雲の重厚感がかなり出ていて何かを押しつぶそうとしているようだった。それは足場工事に使われる建地のようなものに絵画をかけていたが、横にある相模川の絵画と方位の関係をもっていると言われたとき、絵画と絵画のあいだにあるはずの描かれなかった風景が現前されてくる。途中、横浜美術館の方々がこられたのと、外の空気を吸いたくなったので佐々木さんと別れて朝夷奈切通まで歩いていく。ちょうどがっしりした靴だったので歩きたくなったのだった。民家のある途中まですれ違う人たちがみんな挨拶をしてこられるので、わたしも頭を下げる。なかなかないことだ。切通は傾斜があり、ぬかるみも多い。すり減った鎌倉石から石から飛び歩いていく。シダとシダのあいだを歩いていく。頂上には仏像が刻まれた岩とニッチな空間。次第に体が重くなりそうだというところで、高速道路と切通が交差しているところがゴールだ(このポストの上の写真がそれ)。古道と近現代という時代の全く違う道。人が歩く道。車が風景をキャンセルして走り抜ける道。コンクリートと鉄でできた、自然をはねつけようとする道。あちこちに石がコロコロしているボコボコした道。あるいはこうとも言えるだろう。障害者として生まれなかった人が歩いていく道と、一生において障害者である人が歩く道。どちらがそうかはわからない。でも、2つの道が間違いなくあった。それは障害者をめぐる制度的な意味もあるが、たんにその人間の運命である。生まれた時に自分の耳が聞こえていたら、現在のわたしが歩いていない一方の道にいたに違いない。だからこそ見てみたい、このふたつの道が合流するところを、分かれるところを。

20220128

1月28日。26日から集中的に取り組んでいた作業について多角的に確認を終えた。一息ついたところで、前髪が目の前に垂れてきて、美容院に行きたくなってくるのは頭の中にあるメモリが解放されて他のことがどっと入ってくる感覚に近い。夕方、Tabioのチョコレート柄のソックスが目に留まり、もうすぐバレンタインが近いのだと気づく。とても可愛くて気になったが、自分でチョコレートを買おうとしているようで恥ずかしくなって買うのをやめてしまった。書店で佐藤良明先生のベイトソン『精神の生態学』が岩波文庫で出ていたのを手にとる。ベイトソンのコミュニケーション論、メタメッセージやダブルバインドの概念はろう者におけるコミュニケーションを考えるときに興味深い論だと思う。ろう教育における口話で、メタメッセージをどう理論化できるのだろうかと思う。この本の訳者の佐藤先生はかねてよりとてもお世話になっている。京都だったろうか、関西からの夜行バスで東京の渋谷に戻ってきてそのまま国会図書館に行くために朝食と休息をとるべくタリーズに入ると、佐藤先生が朝食をしておられた。当時、わたしは表象文化論学会に入会したいと考えており、手話通訳を学会大会に配置してもらいたいという希望を持っていたのだった。それは一度、断られたのだが、やはり入会したいという希望が消えなかった。それで佐藤先生は当時、学会の理事だったので挨拶にうかがったのだった。なぜお顔を存じ上げているかというとその時期の何かの英語番組に登壇していたからだと思う。それが最初のきっかけで、もしわたしがタリーズに入らなかったら、佐藤先生がタリーズに入らなかったら、わたしは表象文化論学会に入会していないだろう。入会できたのは当時の学会の関係者のおかげだと思っており、その中でも佐藤先生との偶然の出会いは大きかった。ひさしぶりに横浜駅の上にあるNEWoManまで出かけ、ももひきを買い足す。ここはレディスのファッションが多いが、小物が結構よいのでついでにいろいろと見て回る。そのまま降りてスーパーで大きな大根と長芋を求める。すぐにサラダにして頂いた。
今夜、あの小さな窓は光がまったくない。もう引っ越していったかもしれない。向こうはわたしの窓に気づいていたのだろうか。むろんそれを知るすべはない。

20220127

1月27日。昨日と同じく、学期末に向けた事務作業が中心の1日で、研究関係のことは残念ながら書けることがない。ただ、古いノートを見なければならず、そこにはまだ訪問していない文書館の名前と調査したい史料の名前が書いてあった。ああ、これまだ見に行っていないんだよなあという軽いため息。思い切って東北、関東、北信越というふうに地域ごとにプランを立てて旅しないと達成できなさそうだ。できるとしても、目の前の目標があるので当分先のことだろう。それと、昨日の日記に書いた、あの小さな窓はまだ光があって、部屋が少しずつ整理されているのがわかる。そのうち不在の部屋になる。
最近の朝食では、食パンにチーズをのせて、オーブンで焼いたあとにハチミツをのせて食べている。そのハチミツがときどき結晶化するのが楽しみな季節でもあった。シャリシャリとした味わいが好みだからだが、以前あえて結晶化することができないかと思い、冷蔵庫に入れたりもしてみたがまったく効果がなかった。どうやら、ハチミツの種類によって結晶化しやすいものとしにくいものがあるようだ。養蜂をされている方のブログには以下のように書いてあった。

花蜜由来から考察すると、ブドウ糖と果糖の比率により結晶化するスピードに変化がある。果糖比率が高い方が結晶しにくくなります。あくまでも一般的には、草花の花蜜の方が木の花の蜜より結晶しやすい傾向があります。日本で代表的な結晶しにくいはちみつと言えば、アカシア蜜です。その一方最も結晶しやすい蜜と言えば、菜の花蜜です。

一方、ビンに詰まったはちみつは、お客様に届くまでに揺れ、気温の変化を受けているので結晶化してしまうのです。

結晶化には動きと気温の変化が重要らしく、13〜14度がもっとも結晶化しやすい温度とのこと。こちらの知恵袋にはわたしと同じ質問をした人がいた。これらを読んでいて思い出したのは、4年ぐらい前に山本浩司さんと纓田宗紀さんと歴史家ワークショップで企画した「迷える子羊たちのために 論文執筆の処方箋」のことだ。これは、論文をうまく書けない時にどうしていたかということがテーマなのだが、登壇した青谷秀紀さんが生活の中でのリフレッシュとして散歩することを挙げていたと記憶している。散歩というのはまず、家から出て歩くことである。それは動くことであって、かつ気温の変化を身体で受けることだ。机のうえで史料を読んでいて難渋していることから一旦離れることによって、糸口を再発見できることを思い出した。もうお気づきだと思うが、ハチミツの結晶化という、何かが析出してある形を形成するプロセスで、動きと気温の変化が関わっているということとわたしたち研究者が論文を編み出すそれは似るように思ったからだった。自分の経験からいっても、家の中だけでまったく動かないで論文を書くことはできない。

20220126

1月26日。学期末を迎えたもろもろの作業に集中しなければならず、執筆・読書をする余裕がとれずにいる。起床して着替えを終えたときにカーテンをあけて外の風景を見る。いつものことだ。住んでいる家は小高い丘の上に建てられたマンションで、街を見下ろせるロケーションなのだが、その風景には小さな窓の付いた、小さなアパートがある。その窓にはレースがかけられていて、夜遅くまで蛍光灯の白い光がレースの模様を写しだしていたので小さいながらも目立っていたのだった。その住人はサラリーマン風の男性で、夜遅くに帰ってくるのを一度だけ見かけたことがある。
今日、そのレースが取り外され、ガラス越しには暗くなっていた。引っ越したのだろうか。夜になって、洗濯物を取り込むためにベランダに出るとその窓の向こう側に男性がスマホを手に寝そべっているのがチラッと見えた。周りはダンボール箱がいくつか置いてあった。どうやら引っ越すらしい。洗濯物を取り終えた頃には、作業を再開するように箱の中に荷物を詰め込んでいた。それで思い出すのだが、その家には長い間、レースが取り付けられていなかった。夜にはパソコンのディスプレイから万華鏡のように色のパターンがカラカラとよく変化していて、アニメを鑑賞しているように見えた。雨の日のような視界の悪い日はぼんやりと窓が光を放っていた。ある日には、床が見えないほどのゴミが散らかっていることもあった。余裕のない日々だったのだろう。こうした窓にまつわる記憶はその人からもわたしからも消え失せてゆき、誰も見知らぬ出来事としてあの小さなガラスの表面にだけ刻まれていくのであろう。

20220125

1月25日。写真は松濤美術館エントランスにある、オニキスの石材を薄くカットした天井。外は軽い雨が注いでいるなか、デスクワークとしてメールのやり取りや書類の整理に終始する。集中力をピークに持っていくことはせず、淡々と作業をこなす。あらかじめ何をすると紙に書き出しておかないとエンドレスに感じてしまいがちだ。紙はA4横1枚のまっさらなもので、そこにすることを書き出しておいて、それを終えると鉛筆で横線を入れて消す。全部横線が入るまで作業をするといったことだ。
すこし前に古書店の目録が届いたので、めくっているとわたしの研究分野ど真ん中の史料があった。ほとんど流通していないうえにあまり値段も高くなかった。さっそく注文をしていたのだが、それが今日届いた。プチプチで梱包されていて、領収書・納品書が同封されていた。テープを丁寧にはがして史料を取り出す。それは明治30年代に撮影されたある写真だ。学術書にも掲載されているもので、史料としての重要度はさほど高くない。これを手にしていると、120年あまり前の時代の輪郭がわたしをたどり直すような思いがする。

20220124

1月24日。昨日、寝るのがおそくてやや睡眠不足。朝はふとんのなかでモゾモゾしていた。寝巻きで布団から出るのは寒いこの上ないのだが、服に着替えおえるとあの寒さはどこかに消えてしまう。リュックを背負い、外出しようとドアをあけた瞬間にゴミ出しの日であることを思い出した。突然やってくる、思い出すというのは。ゴミ袋をまとめたときにはもう電車に遅れることがわかっていた。遅れた電車のなかでリーディングをする。それと、これはわたしの悪い癖だろうと思っているが、授業のことを考えると脳裏で授業をしてしまうのはなんとかしたい。月曜日ということもあり、iPhoneには山のようにメールの着信がやってくる。授業の準備をして、手話通訳者とも会話をする。雑談ともいえるこの時間は大事にしていて、ろう者にとってのオアシスのような感覚がある。授業を終えたあと、図書館にて文献をリサーチする。部屋に戻るころ、夕焼けが濃いオレンジ色の地平を滲み出していた。先日の書評パネルで伊藤慎吾さんが『舞の本』での麻原美子さんの解説について言及しており、とても関心を寄せたのでその箇所を図書館で借りてきたのを読む。また、ロレイン・ダストン/ピーター・ギャリソン『客観性』を読む。以前からたいへんお世話になっている坂本邦暢さん、有賀暢迪さんが訳者として参加されている。お二人の仕事はとてもすばらしい、この時代をとおりぬける眩しさがある。同書だが、想像以上に議論の射程が広く、障害学に引きつけながら読むとおもしろいのではないかと思う。わたしと時計の長針と短針の三者の追いかけっこをしていたら、太陽を地平線のはるか向こう側に追いやってしまっており、空腹のドアベルが何度も鳴らされていた。

20220123

1月23日。授業の準備で、文献を読みながら色々と教えたいことがあって、その量と質をどうバランスをとるかを考える。ひととおりできたあとに、冷蔵庫の野菜室に入れてあったチョコクロワッサンをオーブンで温めようと取り出した。これはTHE CITY BAKERYのもので最近クロワッサン。クロワッサンは生地をバターとともに折り込んで焼くのでパリパリサクサクした食感がある。それで、手にしたそれは重力感があって、噛みしめた時に歯のなかで砕け散る感覚がやってくる。それは音楽ともいえるもので、クロワッサンの世界にカタルシスが起きているともいえる。『メトロポリス』の都市が崩壊していくように、『ドラキュラ』が日光を浴びて灰となるように、クロワッサンは砕け散るのを運命づけられている。その跡には、皿に落葉のように生地が散らばっていて、それをつまんで口に運んだ。

20220122

2022年1月22日。今日はよく喉が渇いた。昼ごはんのハンバーグが濃かったからだと思う。午後、国際日本文化研究センターが主催する総括シンポジウム「日本大衆文化研究の最前線—新しい日本像の創出にむけて―」のうち、『大衆文化研究叢書』書評パネルに参加した。5冊刊行されている叢書の1冊に1章を担当している。書評の松村薫子先生から自分の論文についてコメントをいただいた。それは、いざりくるまへの蔑視は視線の高低もあったのではないかというものだった。蔑視における姿勢・視線の問題について整理することの必要性を思った。また、この叢書がなぜ作られたのか、その構想を同叢書の各巻を担当された先生方のプレゼンテーションを通じて共有できたのがわたしにとって一番得られたことだ。これからの研究の発展において、自分の専門性から貢献できることがあればと思う。それと登壇された方々の話を伺っていると、大衆文化というのは、小松和彦先生が指摘されたようにその時代に生まれた人々にとって目にできるものから始まるだろう。しかしながら、伊藤慎吾先生が大衆というのは近代都市の中間層であって、地方に関する言及が少ないという指摘を考えると、大衆文化というのは現代のように国の端から端まですっと行き渡るものではなくて、凹凸を形成しながらもそれらが繋がっていって文化が構築されていくという大きな枠組を自分のなかで持つことができたように思う。
身体障害者が出てくる映画で知らなかったものがいろいろと溜まってきたので、DVDをレンタルした。山のようにあってなかなか整理しきれないけれど、これについてもまとめてみたい。

20220121

1月21日。松濤美術館の「白井晟一入門」を訪れるために渋谷まで出かける。このころは天気がいいのに空気が冷たい。Youtubeで見かけたMCハマーのMVでのパワフルなダンスがかっこよく、その動きを真似して(ほんとうに真似!)ポカポカにしながら歩く。松濤美術館に行くときは東急本店にも寄るので、送迎バスに乗るのだけどバスがもうなくなっていた。踵を返して、109を目指して歩いていくとちょうどスクランブルの信号が青になったときで、待っていた人だかりがわあっと一斉に渡っていくのにつられて歩みを早める。スクランブルを渡り終えて、歩みを緩めたとき、「もう令和なんだ」という言葉が横切った。なぜだろう、とゆっくりした歩みを止めて辺りを見回す。若い人たちのファッションだろうか。アムラーのように平成の女性たちに流行した、長いブーツが再流行しているからだろうか。スマホをしている人がいるからだろうか。わたしはあたりを見回してみた。そこに入ってきたのは、渋谷スクランブルスクエアの広告だった。カーテンウォールのうねりを利用して、逆三角形の広告が点滅していた。そのシェープさ、鮮やかなカラーリング。しかし、先ほどのスクランブルはまったく変わっていない。変わっていった風景と変わらない風景が重なったところにわたしは立っていたのだった。

20220120

1月20日。起床してすぐにパンにコーヒー。今日はパンが硬くならずにすんだ。豆を挽いてコーヒーを淹れるとき、前髪がパラリと垂れる。だいぶ前髪が長くなり、前髪が口に届きそうな長さになっていることに気づき始めている。切るか伸ばすかの分かれ道にきているところだ。Along the Waysideの原稿がゲラになって戻ってきたので、朱を入れてすぐに戻す。校正は1度で集中も入る。途中、ニュースを見る新型コロナウイルスのオミクロン株の感染拡大がうなぎのぼりになっていて、キャスターが紹介する日本列島を模した地図のほとんどがオレンジ色になっており、各地で日あたりの感染者数の最多を更新したことを伝えていた。数字を示すキャスターの表情がどこか淡々としているのは、コロナが日常になったことにほかならないだろう。twitterで小川公代さんと少しやりとりをしてとても示唆になるコメントをいただいた、この瞬間がすごく楽しい。SNSの最大の功績は、面識のない人とやりとりができるようになった点にある。お互いがお互いのアカウントで、ひとつの空間(ポスト)で会話を繋げられて、周りもそれを見ていることができるものはこれまで無かった。しかも、会話に参加せずとも他人同士の会話を見ていることもできるところもこれまでわたしの経験の希薄なところだ。
昨日、図書館で取得した文献を読んでいく。春に進めたいと思っている調査のための予備調査として、関連する文献を集めているのだった。ルーズリーフの紙を束からすっとつまみ出し、文献から目に留まったことや疑問点を書いていく。ここ数年そういうことを繰り返して、圧搾されたものが論文になっている。ほか、論文の構成を考えた。すんなりとまとまった気がする。これが今日の一番の成果だ。明日から細部を詰めていく。

20220119

1月19日。週末の土曜日に掲載予定のAlong the Waysideの原稿を書いた。書いているときは手が止まるまではノンストップということもあり、つい朝食を食べ忘れてしまい、気づいたときにはパンが硬くなってしまっていたので皿にのせて直す。この連載は日出新聞という明治の京都でもっとも発行部数の多かった新聞紙を素材に京都について書くというものだ。これまでは記事からみえることを書いていたが、今回は趣向を変えて現在の京都をテーマに設定する。せっかくだからいろいろと試してみよう。夕方、図書館に向かう電車のなかでうたた寝をする。一駅分なので数分ぐらいのはずだったが、ずっと寝ていたような気もする。図書館は平日でも混んでいるはずなのだが、今日は少なめで机がよく空いていた。机に座っている人たちは何やら資格取得のための勉強に励んでいるようだった。データベースにアクセスしたり、これから書くもののために確認しなければならない文献をリクエストしたり。いろいろと目を通して考える。よく歩き回った。夜、硬くなってしまったパンをカフェオレに浸して食べる。

20220118

指先が乾燥しやすいせいであろうか、何かとものを落とす一日だった。卵パックから冷蔵庫に移すときに1つを冷蔵庫の端にぶつけてしまい、卵が滑りおちてしまった。手をすべらせたその瞬間、わたしの脳裏にその卵を待っている結果をすでに見ていた。指から落ちて、床にぶつかるまでのあいだ、わたしは未来を予見するようにこの卵の運命がわかっていたのだ。それはわたしがふだん料理のために卵を割るときの力加減で黄身と白身が出てくることと、卵が落下していくなかでどれだけの力が加わりうるのかその力学を理解しているということもあろう。いや、それだけではない。他にも、割れる卵の映像を見ていたことだ。ダスティン・ホフマンとメリル・ストリープの「クレイマー・クレイマー」では妻が家を出て、夫が息子と朝食を作るシーンがある。そこでフレンチトーストを作るために卵を割るのだが、その割り方が下手で殻がコップに入ってしまう。そんなシーンを知っているからでもあろう。卵をめぐるわたしの経験とイメージが指先から滑り落ちる卵の運命を見出してしまっていた。しばししてから下を見ると、白身がじわっと床に広がっているところだった。

20220117

京都から自宅に戻る。ソフトキャリーにあるものを荷ほどきするまでが旅。夕食を軽く食べたのちすぐに寝る。なんだか変な夢を見た気がするが忘れてしまった。起床したらとても喉が乾いていたのでパジャマのまま冷蔵庫から水を取り出して一口、二口と身体に沁みてゆく。身支度をしながら、ドリップパックコーヒーを淹れる。豆を挽いたときのかおりはとてもいいが、このパックもけっこう余ってしまったのでバタバタしている朝はこれでいこう。出かけ際にポストに入っていた郵便物のチェックをしていたら、遅刻しそうになったので古書店からの目録だけを片手に家を飛び出て、電車のなかで欲しいものがあるかどうかめくる。近世の人文学の文献を扱う書店で、ほとんど知らないタイトルばかり。欲しいものがなく、早々にバッグにつっこむ。なかなか目当てのものには会えない。もうだいぶ前になるが、わたしが研究している範囲の中でとても珍しい史料もあったのだが、注文した時点ですでに売れていた。植民地の盲唖学校で発行されていた雑誌だが、もう出会うことはないかもしれない。これもまた人と同じく縁だろう。京都で収集した史料をスキャンし、整理したのちに授業。一ヶ月ぐらい間が空いてしまったので復習に時間をかけて対話をしていった。

20220116

1月16日。今週の疲れが出たのか8時間も寝てしまう。目覚めてコーヒーを淹れる。普段は豆から挽いているが、ホテルのためスーパーに売っているドリップパックコーヒーを開ける、なかなか美味しい。サラダとパンを食べ、荷物をフロントに預けたのち、バスに乗ろうと道に出る。この瞬間、自分がどこにいるのか自覚する。ホテルのなかではなく、街路に出たときに自覚するのは、ホテルが場所性を持っていないからだろうか。ここが京都である、ということを示すものが何もなく、匿名の感じがする。日曜日だからゆっくりしたいところであるが、京都新聞に掲載しているAlong the Waysideの原稿を書かないといけないので岡崎に向かう。下車してすぐに京セラ美術館で加納俊輔の個展と、コレクション展を見たのち、向かいの府立図書館にて明治期京都の代表的な新聞のマイクロリールをリクエストして、マイクロリーダーを回しながら確認していく(近くの京都国立近代美術館での上野リチ展は、金曜日の夜間開館のときに見ていた)。マイクロフィルムはフィルムをトイレットペーパーのように長く巻いていて、それを解くと撮影されている画像を見ることができるのだが、そのためにはマイクロリーダーが必要。これは手回しと機械で回すタイプがあって、ここにあるのは機械。ジョグを回せば高速でマイクロを回せるぶん、細かく動かすことができない。手回し式が自転車とすれば、これは車に乗っているような感覚に近いかもしれない。ジョグを回しながら、回るマイクロのスピード感を掴んで機械と身体をフィットさせる必要がある。周りは市民の方々であろう、のどかな姿勢で新聞を読んでいる人たちに囲まれながら、わたしはマイクロリーダーの画面越しに明治の京都を流れていた時間とともに過ごしていた。

20220115

1月15日。昨日の雪はもう見えなくなっていた。朝、ゆっくりとクロワッサンとコーヒーを飲みながら考える。歴彩館まで調査に出かける。昨年、途中まで翻刻していた古文書を予約していたのを出してもらい、続きに取り組んでいた。翻刻は古文書をそのまま写すことで、ノートに書くかパソコンを使うかの方法があると思うのだけど、iPadとApple Penが出てからはこの方法が一番良いように思う。テキスト化しつつ、手を動かすことでその文が体内に入ってくるように思うからだ。丹念に読んでいくことで史料の位置付けも想定できてくる。やり終えて間違いがないか確認作業も終え、明治・大正期の行政文書も閲覧し、ノートを取る。昼、セミナー室では「写真の撮り方」なる講座をやっており、けっこう混んでいたのを横目に昼食をする。以前、ここは京都府総合資料館という名で、今の建物のすぐ北側に建物があった。今は旧建物だけが残っているのだが、そこにもよく通った。1階はいつも高校生がたくさんいて自習をしていて、わたしは2階にある閲覧室にこもっていたのだった。この一帯はこれから再開発として府立大の芸術関係施設ができるという話を聞いたことがあったが、まったく進んでいないようだ。コロナもあるし、当分そのままだろう。旧建物の階段を登るところにシスティーナ礼拝堂のミケランジェロの天井画の一部の原寸大が飾ってあった。あまり忠実とはいえないが、妙に印象に残る空間だった。調査を終え、次に閲覧したいものの予約をして出る。
地下鉄で有斐斎弘道館まで。今出川駅を出ると、同志社の茶色の建物がみえる。コロナウイルスの流行があってからは調査に行けなくなったので本当に久しぶり。途中、金剛能楽堂の前も通る。一度だけ訪問したことがあったが、宗家と奧さまはお元気だろうか。調査で訪れた時にいただいた洋菓子の濃厚さが舌に蘇ってくる。弘道館につくとたくさんの靴が並んでいた。見学かなと思いきや、課外授業とのこと。汲古庵という、床の間に格子があるというおもしろい設えの茶室で太田達さん、太田梨紗子さん親子にお会いする。最近書いたテクストをお渡しする。また、和菓子のお店をされている方なので何を持っていくかどうか迷ったが、自分自身が美味しいと思うものということでマールブランシュの小さなパイも持っていった。太田さんは以前、応挙寺こと大乗寺のご論文を書いておられ、わたしの論文を引用している。わたしのは10年前に書いたものだが、お話をうかがっていると、当時の自分が考えていたことの成果や課題が感じられてくる。書く前はわからないことが多かったのに、今はだいぶあの寺のことが鮮明に見えつつある。思考の痕跡を形にしておくことは大事だ。ほか、太田さんから若冲の研究についても少しお話を伺い、わたしが長年考えているテーマとも相関がありそうで興味を深めた。話のさなかで、花びら餅と抹茶をいただく。花びら餅は正月にいただくものだという。ごぼうは正月の縁起物としてわたしの実家でも出てくるけれど、餅に巻くとはまったく想像していなかった。ごぼうの切り方がきれいで甘く、思わずにやけてしまう味。ところで、弘道館の建物は幕末から昭和にかけて少しずつ増築しており、かつては皆川淇園の学問所の跡地でもあったという。日本史の儒学は明治とともに衰退し、学校教育としての修身に置き換わっていくが、明治末期は顕彰事業とともに京都では儒学が流行した兆しがあって、街のあちこちに塾があったことを思い出す。こうした私塾の成り立ちと淇園について考えるのもおもしろいだろう。誰かが書いていたが、ローマ、ロンドン、京都という何世紀にも渡って町としてあったところは時代ごとの時間が折り重なっている、ミルクレープのように。

20220114

1月14日。外はちり紙を小さくちぎったような雪が降っていた。その軽さに世界から重力が少し失われたかのようだ。ぎりりと雪を踏みしめて歩く。ピーコートに雪がひっついてしろみが抜けて水になろうとするけれども、次第に乾いていってしまう。ペンギンのようにじっとしながらバスを待っていた。ベンチには打ち捨てられたかのような雪だるまがあった。昨日に続いて史料調査に出かけるためだ。史料を見ながら、分析と考察の可能性を考えながらノートに書き留めていくだけで一日が過ぎていく。調査を終えてパンを買いに行き、夜は知人と少しだけ話をする。コタツを出さないと決めていたのに、寒くて誘惑に負けて出してしまったという話に笑ってしまう。

20220113

1月13日。木曜日。2年前のことになる。やらなければならない研究についてテクストを書いていた。お世話になっている先生に読んでもらったところ、深く突き刺さる不備点を指摘された。その問題を解決する糸口をたどりに史料調査に出かける。史料を閲覧し、あらためて研究全体の位置付けを考える。史料の翻刻と撮影をしながら、頭に浮かんだことをノートに書き、仮説の検証のための分析と考察までの道筋を考えていたら1日が終わった。オミクロン株の流行で浮ついているような気配のなか、帰りのバスのなかでぼんやりしていたら、前の席のおじさんがiPhoneの最新である13でポケモン収集に勤しんでいた。外の風景とシンクロする画面。それに夢中になりすぎたのか、いきなり背をピンと伸ばして駆け足でバスを降りていく。しばらく行ったところで降りて、とんかつを食べて、お菓子を買って帰る。この通う道もだいぶ慣れてきた。この慣れというものが、今日考えていた研究の終着点にたどりつかなければならないことを告げているように思った。

20220112

1月12日。部屋で工作をしていて。それはソフトキャリーのタイヤを修理することだった。けっこうすり減っていたのでパテを埋めて形を整えるのにカッターを扱っていた。プラスチックを削っていたわけで、黒いタイヤに白いパテがまだら模様になっていたところだった。そこで、何かが飛んできて眼に刺さってしまった。カッターが突然折れて飛んだのである。あっと気づくとカッターの欠片がテーブルに落ちる。さほど痛みはなかったが、しかしじっと眼を動かすたびに痛く、経験したことのないことだった。近所の眼科に行って説明をすると、眼科医が心配そうな顔で検査をしてくれた。結果、かなり危なかったとのことで角膜に傷があるといわれた。点眼薬を2つ処方されて通院する必要があるとのこと。そのあと、日本で視覚障害者の生活支援をするライトハウスを興した岩橋武夫のことを思い出した。岩橋は早稲田在学中に失明して中退しているのだが、その自伝的小説『動き行く墓場』を1925年に出している。岩橋が出した初めての本で、眼に異変があり、見えなくなるまでのことが書かれている。眼科の話に戻るが、その検査というのがフルオレセイン試験紙を角膜にたらして、青色の光を当てる検査で、普通の検査ではわかりにくい角膜(黒目のこと)の傷の具合が判明するというものだった。わたしは初めて受けたが、青い光が眼全体を覆っていて、スペクトルというか、自分の世界が青で満たされていてちょっと忘れがたいものだった。その青を浴びたとき、わたしのこの経験が岩橋の眼が見えることと、見えないことの間で苦悩していることのはざまにあるように思われたのだった。

20220111

2021年1月11日。火曜日。この日記は昨日アップするつもりだったが、手元にあるMacbook Airの調子がすごく悪くなってしまった。起動がものすごく遅くなっており、起動するだけでも30分近くかかる。昨春にも同様のことがあり、OSを再インストールすることで解決したがそれが再発した。また再インストールするよりは原因を探ると、kernel_taskに問題があることがわかった。これは何かといえば、CPUにあえて高い負荷をかけて、それ以外の動作を抑えることでCPUの温度を下げようと仕組みだという。だが、ファンの不調でパソコンの温度が高くなっている可能性もあるので、ファンを何度か掃除したり、SMCのリセットなどをやって解決したが、このプロセスを見てひとつ思うのは人間の発汗と似ているなということだった。発汗はいうまでもなく、汗をかくことで熱を捨てて体内の温度を下げるシステムだ。血流量を増やして皮膚の温度を上げることで内部の温度を下げることと、CPUの負荷を上げることで温度を下げていることに気づくと、パソコンの温度が妙に生っぽく感じられたのだった。

20220110

1月10日。月曜日の祝日。宅配便が2つ届く。ひとつは玄米、もうひとつが鴻池さんの個展で展示した手紙。玄米から米袋を取り出して箱をそのままにし、もうひとつを開けて手紙を読み返す。昨年末までの個展で展示しているときは手紙が手元になかったわけだが、最後の日付の手紙にたいして返信を書くにはそれを脇に置かなければ書きづらいということに気づく。また、ギャラリーからの手紙もあり、個展で置いていたわたしの論文の抜刷りが完売していたことを知る。数部しか置いていなかったのだけど、全部売れるとは思わなかった、もっと持って行けばよかったかな。
インターネットのニュースで藤井と渡辺の王将戦の結果を知る。最後の分将棋はジェットコースターのように駆け巡っていて両者ともかなり疲弊したことだろう。そろそろ現地調査の準備にかからなければならないのだが、キャリーケースのゴムタイヤが割れてしまっていた。接着剤で応急処置をしていたが、隙間ができてしまっていたので買っておいたパテでタイヤを整える。明日は機材のチェックや見るべき史料の再検討をする。他にも連載の原稿を書かないといけない。今月の山にさしかかってきたところだ。